私は普段は玉野市の玉出身としていますが、ごく短期間ですが幼少期を玉原で過ごしています。
幼稚園、小学校の1年の途中までを玉原で過ごしたので、思い出せる最古の記憶は玉原の風景です。
今回はずいぶんと久し振りに玉原を散策してみようと思います。
スタート地点はここから。
玉原の駐在所です。
ここは私がいた頃はずいぶんと古い建物でしたが、後に現在の建物に建て替えられました。
周辺では交番の再編が行われ、玉や和田周辺を管轄する玉野マリン交番が出来ましたが、どうやらこちらは残されているようです。
玉原はあまり広い地区ではありませんが、市営住宅を始めとする集合住宅が多く、人口は意外と多いです。
令和4年8月時点で約2600人もいます。ちなみに新興住宅地で人口密集地であるレイク玉原、玉原ニュータウンは住所は長尾です。後述しますが学区は玉原です。
玉原といえばこれですね。
志池です。大型の溜池で、昔はここで魚捕りなどをして遊んだものです。
現在は親水公園化されており、あまり水辺に近づけないようになっています。
親水公園として整備されて、水で遊びづらくなるという矛盾が皮肉な感じがします。
では懐かしい玉原の住宅地の方へ向かっていきます。
玉原は坂の町です。
地区の大半が坂になっています。
とにかく歩くのが大変で、更に自転車が坂道を猛烈な速度で滑り降りてきたり、道に対しては良い思い出が全くありません。
この途中にあるのが玉原市民センターです。
母に連れられて何度か来た覚えがありますが、市民センターだったのは今回初めて知りました。
税金の支払いなどに訪れていたのでしょうか。
小学校はこの坂を登りきった先にあります。
前述の通り私がこの学校に通ったのは小学一年の途中までです。
とにかくランドセルを背負って坂を登るのが大変だったことが一番の思い出です。
この日は平日だったのでこれ以上の写真は撮れませんでしたが、玉原小学校は市内で最大の運動場を有します。
長尾の新興住宅地まで学区に含むので、生徒がとにかく多かったのです。
私が通っていた頃で900人位の児童がいたので、それに対応するためです。
しかしそれも今は昔。現在の生徒数は約160人。(2021年度)ずいぶんと減りました。
その影響を受けたのがこちら、玉原幼稚園です。
2018年に閉園になり、すぐ近く(玉原市民センターの隣)にある保育園と統合される形で玉原認定こども園が新設されました。
建物は保育園が用いられたので、こちらの建物は現在は特に使用されていないようです。
懐かしい風景です。螺旋階段も当時のまま。
幼稚園の頃の記憶というと曖昧ですが、この景色を見ると色々と思い出します。
当時の私はあまり丈夫ではなく、母に何度も迎えに来てもらいました。
子供なので母の顔を見ると少し元気を取り戻すので、仮病じゃないかとからかわれたことも良い思い出です。
さて話題を小学校に戻します。
小学校の校門の前にあるこちらのお店、今は簡単な少量品を扱う商店のようですが、私が住んでいた頃は玩具や駄菓子を扱う子供をカモにした下校時の子供たちが立ち寄るお店でした。
私はこういうお店を学校帰りに利用するような学年になる前に転校してしまったので利用する機会はありませんでした。
上級生が色々なものを買っているのを見て、面白そうだと憧れたのはよく覚えています。
そして学校周辺の風景といえば、やはりこれです。
坂の上の辺りは集合住宅が密集しています。
確か一通り市営住宅だったと思います。
私が通っていた頃はまだ専業主婦の家庭が多かったので、昼間でも人の出入りや井戸端会議で賑やかでした。
今は共働きの家庭がほとんどでしょうし、住民自体もやや高齢化になったのでしょうか。そうした風景は見られませんでした。
空き部屋も増えています。
建物の耐用年数を考えると、もう新規の入居者は受け入れずに住民がいなくなり次第で撤去か建て替えという流れでしょうか。
そしてこの市営住宅の辺りから下に降りていくと、かつての雇用促進住宅が見えてきます。
現在はヴィレッジハウスに変わっていますが、私が住んでいた頃はまだ雇用促進住宅でした。
雇用促進住宅は鉱山の閉山が続いた時代にその救済策として、再就職をして住居が安定するまでの間は安く住める場所を提供する目的で作られました。
その為、入居期間に定めがあります。
当時の玉原の間には子供に対して雇用促進住宅の子と余り仲良くしないようにした方が良いという雰囲気がありました。
仲良くしても途中で契約期間の満了で引っ越していなくなるから寂しい思いをするという理由だったようですが、子供には関係ありませんね。しっかり遊んでいました。私の場合は自分が転校でいなくなるわけですが(笑)
坂の下には先程見たのと同じような感じの市営住宅が立ち並びます。
こちらは入居者が現在でも多いようです。
交通の便の悪い坂の上を廃止して、こちらに集中するような施策でしょうか。
そしてその近くにあるのが、私達一家が住んでいた市営住宅です。
特に大きなリフォームがされた様子もなく、思い出のままの風景です。
写真中央の2階の部屋に住んでいました。
今は空室のようです。
部屋の間取りは3DKです。
ただしそのうちの一室はあまり広くない部屋で、家によっては倉庫代わりになっていたりしました。
以前に赤磐市の福田住宅の記事で触れたことがありますが、昔は未亡人になった母親を受け入れる部屋として利用される事が多かったようで「隠居部屋」という呼ばれ方をしていました。
私が子供の頃で既に核家族化が進んでいて過去の名残として用いられていた用語なので、現在の入居者はそういう呼び名は使っていないかもしれませんね。
余談ですがここの鉄板から落ちたことがあります。
幼稚園の頃で鉄板の上を歩いていたらガタッと落ちて、その後は記憶にありません。鉄板が足に突き刺さっていたらしいのですが、気がついたら治療が終わって家で寝ていました。痛すぎて忘れたのでしょうか。
当時の傷跡が残っているのと、お気に入りの靴が血染めになって捨てざるを得なかったので、恐らく相当な目にあったのでしょう。
さて今回はこの辺りで、近い内にもう一回だけ玉原の記事を上げようと思います。