2005~2006年にかけて、日本全国で市町村合併が多く行われました。
平成の大合併】と呼ばれるもので、合併特例債などの財政面での優遇や、政令指定都市の要件の緩和が行われました。
岡山市もこの時の人口要件の緩和で政令指定都市を実現しています。

しかしこの時に合併をしなかった市町村も存在します。
今回はその理由について岡山県内の自治体のケースで触れてみようと思います。

勝央町

勝央町は最終的に合併はしませんでしたが、前向きに様々な形を検討していました。

新設される自治体の本庁舎の位置で折り合いがつかなかったり、協議していた町村が別の枠組みに参加してしまうなど紆余曲折を経ています。
最終的に合併で誕生する美作市へ参加する方向で話が進みましたが、住民アンケートで合併反対が多かった事を受けて単独での存続を決めました。

ネオパーク勝央という工業団地を持ち、大手企業の拠点がある事から、財政的にも単独でやっていける余力は充分にあったのではないかと思います。

関連リンク:勝央町の地名の由来

西粟倉村

西粟倉村は合併により誕生する美作市に参加する方向で話しが進んでいました。
しかし住民アンケートで合併反対が多かった事を受けて、単独での存続を決めました。
合併反対は約58%だったそうです。

単独での存続を決めた後は村の人件費の見直しや先祖から引き継いだ森林を活かす為の【百年の森林構想】を立ち上げ、現在では多くの自治体から注目を集める存在になりつつあります。

関連リンク:西粟倉村の地名の由来

新庄村

新庄村は早い段階で「小さくても合併せずに自主自立の村を目指す」という新庄村宣言をして単独での存続を決めました。

村の歴史を振り返っても、自然村として発足して町村制が施行されて以降、新庄村はただの一度も合併をした事がありません
元来より合併ではなく自分たちで頑張っていこうという意識が強いのでしょう。

村内には林業や農業の他にがいせん桜などの観光産業の強みもあるので、無理に他と合併するよりも小さい村のままなら充分にやっていけるという判断もあったのではないでしょうか。

関連リンク:新庄村の地名の由来

奈義町

奈義町は住民投票の結果で反対多数だった為に、早い段階から単独での存続を決めています。
投票結果はなんと約73%が反対です。

奈義町には日本原駐屯地があるので、特定防衛施設周辺整備調整交付金などで多額の財政支援を受ける事が出来ます。
これは単独でやっていくには充分な強みです。先に紹介した三町村と同様に、合併して財布を分け合うよりも小規模の町のままでお金をやりくりした方が得策と考えたのでしょう。

現在では子育て支援を充実させる事で、なんと過疎自治体でありながら出生率が全国トップクラスに躍り出るなど、「奈義町の奇跡」とまで呼ばれています。

関連リンク:奈義町の地名の由来

矢掛町

矢掛町は美星町との合併を検討していました。

しかし美星町は周辺の町と共に井原市との合併協議を進めていました。
矢掛町もこの協議への参加を促されていますが、これには参加せずにそのまま単独で存続する事になりました。

矢掛本陣などの観光産業がある事から、夜空の美しさが人気の美星町と共に観光面を強化した街づくりを考えていたのでしょうか。

関連リンク:矢掛町の地名の由来

早島町

早島町は現代の交通の要衝で、倉敷市と岡山市双方のベッドタウンとしての機能を有する町です。
その影響で町の人口密度は県内1位です。

岡山市と共に岡山県総合流通センターの所在地であり、財政的に豊かな自治体です。
なので単独での存続を通すのも当然…ですが、実は住民の間では倉敷市との合併を検討する声が少なからず存在しており、実際に協議もされていました。
しかし実現はしませんでした。

関連リンク:早島町の地名の由来

里庄町

里庄町は2002年の段階で早々に単独での存続を決めています。
しかし当初は浅口郡5町(里庄、船穂、金光、寄島、鴨方)での合併を検討していました。

その後も一部の町民から金光、寄島、鴨方の合併(現在の浅口市)へ参加する要望の署名が出される等もしていますが、最終的に実現しませんでした。

町内に多くの企業の拠点を有する事から、財政面でも単独で充分にやっていけるという判断だったようです。

関連リンク:里庄町の地名の由来

久米南町

久米南町は合併で誕生する美咲町に加わる方向で話が進んでいました。
しかし途中で財政の計画などに対する意見の相違で離脱しました。

その後は建部町(現・岡山市北区)との合併も協議されましたが、最終的には単独での存続を決めました。

関連リンク:久米南町の地名の由来

笠岡市

笠岡市は里庄町、現在は浅口市になった鴨方町、金光町、寄島町へ合併の協議を申し出ています。
しかしこれらは実現せず、最終的に単独で存続する事になりました。

一説には笠岡市の財政事情が思わしくなく、それが敬遠されたとも言われています。

関連リンク:笠岡市の地名の由来

玉野市

玉野市は岡山市との合併が進んでいましたが、一方で根強い合併反対派の運動もありました。
その為に住民間では反対意見が強まっていました。
問題になっていた住民サービスなどのネガティブな理由の多くは協議の中で解消されていたにもかかわらず、合併は実現しませんでした。

岡山市との合併協議からの脱退後にもすぐに単独を決めた訳ではありません。
灘崎町(現・岡山市南区)との合併を模索したものの、灘崎町は玉野市と共に岡山市との合併の協議を進めており、そのまま岡山市との合併を選びました。

余談ですが政令指定都市を目指していた岡山市は玉野市との合併への意欲が強く、玉野市の編入合併ではなく対等な立場での新設合併でも良いという譲歩を見せていました。

関連リンク:玉野市の地名の由来


以上が合併をしなかった市町村の事情です。
単純に財政面で単独で大丈夫という自治体もあれば、住民の反対意見や様々な条件面で折り合いがつかずに合併が実現しなかったというケースもあります。

もちろん表面に出てこなかった裏事情もあるかもしれませんが、市町村合併が容易なものではないという事が判るような気がします。

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