【倉敷市】倉敷美観地区の供養碑…謎の野上芳太郎とは?


倉敷美観地区の本町通りの東端まで進むと、まがり大師堂というお堂があります。
元は玉泉寺という寺院だったようで、今でも歴代住職の墓が残されています。


現在はこの一角のみが大師堂となっています。
旧玉泉寺は道を挟んだ向かい側まで境内が伸びていたようで、そちらに幾つかの石碑が見られます。


今では道の片隅に唐突に石碑があるようになっていますが、恐らく元々は境内の一画だったのでしょう。
今回は玉泉寺の話題ではないので、その辺りはまた別の機会にしましょう。

石碑はそれぞれ奉唱、弘法大師の年忌といった内容なのですが、向かって左側に経路の違う供養塔があります。


野上芳太郎供養碑です。
右側面には発起者として何人かの個人名が連なっています。

こういう供養塔、公徳碑は現代にあまり知られていない人物の名前を見つける事が出来て、よく調べるのですが…。
野上氏に関しては人名図鑑などを見ても名前がヒットせずに分からずにいました。

…が、他の調べ物があって岡山県の特所管のレファレンスを確認していたところ倉敷市の中央図書館が質問に答えていた履歴を見つけました。
まさか書籍で見つけられなかった情報をネットで見つけられるとは…。凄い時代になったものです。

閑話休題。


野上芳太郎は現在の岡山市東区西大寺地区出身の行商人です。
中央図書館の回答によると「故衣(いつも着て着慣れた着物のこと)の行商」とあります。これは恐らく古着の事ではないでしょうか。

その為に豊後地方に出向いている途中で海難事故に遭い、お亡くなりになられたそうです。
この供養碑が倉敷市にあるのは野上氏が倉敷を活動の拠点としていた為で、当時の商店主らが建立したようです。

年齢は20歳と非常に若く、生前に供養碑が建てられるほどの業績を残したとは思えません。
将来を嘱望されていたのか、それとも好人物として倉敷の町で可愛がられていてのか…。供養塔からそこまでの詳細は伝わってきませんが、多くの人に愛され、その死を惜しまれた人物だったのでしょう。

ちなみにこのエピソードは井上雄風編著の『拓本集覧倉敷と周辺の碑』という本に収められているそうです。
この本は存在は知っていたのですが、価格が高かったので未購入でした。そもそもの発行部数が少ないらしく、公立図書館でも置いてあるのは倉敷市内だけです。興味がある方は調べてみてください。行きやすい場所としては今回の質問に答えている中央図書館、ライフパーク倉敷図書室辺りがお勧めです。
所有しているのは他に水島、児島、玉島、船穂、真備です。




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