笠岡の港の辺りを散策していると、古城山公園のふもとの辺りでこのような石碑がありました。
決して珍しい物ではありませんが、隣に看板が設置されなにやら謂れのあるもののようです。
かなりの年季を感じさせるものです。
裏の倉庫の土地の一角に長く設置されてきた様子。
では看板を読んでみましょう。
要約すると江戸時代末期に古城山の西端にあった観音堂や麓の港で自殺者が続出したそうです。
具体的な人数は記されていませんが、その評判の為に笠岡の町や港が寂れるほどだったというので相当な人数だったのでしょう。
これを心配した笠岡の庄屋が六条院村(現・浅口市鴨方町)で名僧の誉れが高い人物に相談をし、祈願法要を行いました。
そしてその際に建てられたのがこの石碑で、文字もその僧侶によるものだそうです。
この供養碑を設置後、自殺者は止まったそうです。
しかし戦時中の土地開発の際に石碑は失われました。
後にこの場所で建築工事が行われている際に供養碑が発見され、その社長が敷地内に祀るようにしたそうです。
後に山の傾斜地の工事が行われる際に現在地に移されたのだとか。
看板には自殺者が続出した原因として江戸時代末期の政情の不安定な状態が原因だったのではないかという事が書かれています。将来が見こせない時代に失望し、死を選んだのかもしれません。
ちなみにこの供養塔を祀った心優しい会社は現在はこの場所にはないようです。
会社名で検索してもヒットしなかったので、社名を変更したのか、それとも廃業や統廃合で会社自体が失われてしまったのかもしれません。
関連リンク:観音端供養碑の話し