岡山市北区に宿という地区があります。
赤磐市山陽町につながる県道27号線沿い広がる地区です。
県道から一段低い場所になっており、このような廃車や廃屋が見えるので気になっている人も多いのではないでしょうか。
岡山市北区宿についてはバラックの建物や、それにまつわる話がよく知られています。
戦後の混乱期に流れてきた外国人がこの辺りにバラックの建物を建てて占拠するようになったと。
しかし公的な資料ではその辺りの事は触れられていません。
もちろん全ての資料を読んだわけではありませんが、例えば岡山市制百周年記念で岡山市が出版した「岡山市の地名」。各地区の地名の発祥や歴史に触れた本ですが、ここでも宿の欄にそれらしい記載はありません。
非公式な形で発展してきたというのであれば、公式な資料に掲載されていないのはある意味で合致しているという見方もできるかも知れません。
しかし資料になくて、かといってネットなどの噂を鵜呑みにするのもどうでしょう。
…ということで、実際に行ってみました。
これが2021年秋の岡山市北区宿の辺りです。
建物の基礎部分が幾つも残されているのが見えます。
具体的な時期は定まっていないようですが、県道の拡張に向けて宿の辺りでは立ち退きが進められているのだとか。
尚、この住宅跡の部分は最近まで普通の住宅やコーポが立ち並んでいました。Googleマップのストリートビューで2015年時点では普通の住宅地だったことが確認できます。
このストリートビューの手前に見える建物の殆どは撤去されています。
周辺で駐禁になっていない場所にバイクを止めて散策することにします。
ここで興味深い事実に気付きました。
宿でバラックなどの建物が立ち並ぶのは旭川の土手の一角のみで、他は概ね高度経済成長期やそれ以降に開発されたであろう新興住宅地の佇まいです。
私はバイクの駐車場所を求めて新興住宅地の方へ向かいましたが、こちら側に来るとバラックが立ち並ぶ方に行くのにほぼ道がありません。
車では県道から直接降りていくしか道が無いようです。
徒歩では道が全くないわけではありません。
県道から三野との境界にある交差点から宿へ入ると、上のような自販機コーナーがあります。
この正面に分かりづらいのですが、用水路沿いに人が通れる道があります。
手前側が下り坂の道になっているのが分かるでしょうか?
ここを通れば住宅の間を抜けてバラックが立ち並ぶ辺りに出ていきます。
交通の便が悪いと言ってしまえばそれだけの事ですが、ここは「宿」という一つの地区内です。
普通の地区であれば町内会など地区全体の付き合いもあるはず。それが断絶されたような形になっているのは、非常に違和感を覚えます。
もしも噂通りの地区なのであれば、あえて断ち切ったという見方もできるのかも知れません。
道はこのような状態です。
昔は住宅地を抜ける細い道だったのでしょうが、今は草むらを抜けるような状態です。
こちらへ出てきたものの、バラックの建物で人が住んでいる所はもう無いように感じました。
倉庫のような使い方をしているような建物はありましたが、既に人が住むには耐用年数が尽きてしまっているという方が正しいでしょう。
人が住んでいないと家は傷むといいますが、これはそれ以前の問題です。
財務省の出した「国有財産台帳の価格改定に関する評価要領について」ではバラックの建物の耐用年数は10年とされています。
これは税金のことなので実際の耐用年数とは異なるはずですが、バラックの建物の耐用年数は一般の住宅ほど長くはないのです。
今でも人が住んでいるのは、普通の木造建築を中心とした住宅です。
それにしても空き家が多いです。
先に触れた立ち退きが進められている影響でしょうか。
ところでこんな建物もありました。
広島東洋カープ 赤ヘル軍団。
後援会のようなものでしょうか。こちらの建物も使用されていません。
防犯連絡所と書かれた建物はグラフィティの被害に遭っていました。
空き家でも他では殆ど見られないのに、逆に防犯連絡所だけ。皮肉な感じがします。
ところで此の辺りを散策している内に、住民の方とお話が出来ました。
まぁザックリ言えば、ネットで書いてあるのに近い内容をお聞きしました。
「そこのお宅なんかは、名前もそうだよね」と言われて見に行くと、確かに日本では余り見られない姓の表札がありました。
しかしそういう歴史も今は昔。
ネットでは昔はここに地区外の人が入り込むと出ていくように外国の言葉で言われた…というようなエピソードも見られましたが、今の住民の方はごく普通に挨拶をしてくれます。
岡山市の中心市街地に近いことを考えれば、寧ろフレンドリーです。
開発されれば遠くない未来に失われてしまう場所なのかも知れません。
しかし公的な資料に歴史が残されないまま、消し去ってしまうのには惜しいような気がしました。