【岡山】「梟首台」の真相に迫る|伝説と機能の境界線

岡山の梟首台とは?
最近になって岡山県の心霊スポットの一つとして語られるようになったのが、岡山市北区の「梟首台」(晒し場)です。
かつてさらし首になった人の首を晒す台があったとされある場所です。
YouTubeなどでは雰囲気づくりの為か、山深い場所にあるような感じの演出で紹介されていますが…。
そもそも首を晒す=人の目に触れるようにするという事なので、車道から見える位置にあります。
ストリートビューでも見られるので、紹介しましょう。
この石です。
読みづらいですが、弔・梟首台と書いてあります。
これが晒し首の首を晒した台が何故か取り残されたものだ…!と言われているようですね。
その真偽を考える
私も否定する資料を持っているわけではないので、淡々と事実だけを述べていこうと思います。正直なところ、私はこれが晒し首の台に使われたとは思っていません。
梟首というのは晒し首の事で間違いありません。この場所がその場所だったという事を記すというのも間違いないと思います。
ただこの石で晒し首を射ていたのかというと、これは通常はそのような事をしません。
石の上に球体の物を置けば、普通に考えて転がってしまいます。なので晒し首は木の台で行います。なぜ木の台かというと、裏側から五寸釘で首を固定する為です。
なので台は都度、新しいものを用意しなければなりませんでした。なのでこの石が晒し首の場を示すものであるとしても、この上に首が置かれていたものではないと考えるのが自然でしょう。安定性もよくなさそうですしね。
もう一つの説として備中福山の戦いの際の首実検後の首を晒したという説もあります。
だからいちいち木の台を作ったりしなかった…という事なら、確かに即席で石を使ったのは分かります。ただ、やはり人の首を置くような安定性のある石には見えません。
それと、この石の後ろにある台をそれだとする意見もあるようです。
これは供物台、物置台ですね…。
私の思う真実
かつての処刑台が残っているとなればロマンあふれる話題ですし、サイトの話題にもなるので、そうであって欲しいとも思うのですが、色々と見て、考えて…当てはまるピースが見当たりません。
それと石に「弔」と刻まれているのも、違うような気がします。晒されている首は弔うのではなく、刑罰の途中にある物です。
なので、南北朝時代の合戦の際なのか近代なのか分かりませんが、かつてここで晒していたというのは事実としてあるのでしょう。それを後年になって弔うための慰霊碑のようなものとして、これが置かれた…というのが実際の所ではないでしょうか。
文字の彫り方の技術的に江戸時代後期~明治時代初期くらいかなと予想します。
真相が明らかになる日が来るのかは分かりませんが、資料をめくっていけばいつかは巡り合えそうな気がするんですよね。
その時、どちらの意見が正しいか…、こうご期待ですね笑
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岡山生まれ、在住歴=人生。興味がある場所は歩いて見に行く「まち歩き」実践者。 郷土史だけでなく、地域グルメの歴史や廃線跡などの隠れた観光スポットを特に深掘りして発信。現在から過去まで網羅する岡山の情報サイト。 サイト開始:2002年~。25年以上の運営実績。












