1982年の観光便覧を入手しました。
その中には、当時の岡山県内に存在していた国民宿舎・国民休暇村の一覧が掲載されています。
せっかくの貴重な資料なので、「当時存在していた国民宿舎が、現在どうなっているのか」をテーマに、全11回(+国民休暇村 1回)にわたって現地調査や資料確認を行ってきました。
この記事は、その総括です。
1982年当時、国民宿舎とは何だったのか
国民宿舎は、国や自治体が関与しながら「安価で、誰でも利用できる宿泊施設」として整備されてきました。
その数が最盛期を迎えていたのが、まさにこの1980年代前半の時期だったのです。
岡山県内でも、
・温泉地
・海水浴場
・景勝地
といった、いわば観光の王道に立地しています。
当時の観光は「団体旅行」「家族旅行」が主流で、立地が良く、価格が安く、一定の品質が保証される国民宿舎は非常に合理的な存在でした。
現在の国民宿舎跡地はどうなっているのか
今回調査した施設を大きく分類すると、傾向ははっきりしています。
① 廃業後、更地・公園化
・桃太郎荘
桃太郎荘は建物は撤去され、イベント広場や芝生として活用されています。
一方で王子が岳に関しては建物が撤去されただけの状況で、再利用されている様子はありませんでした。
② 老人福祉施設へ転用
・国民宿舎ひなせ跡(ケアハウス)
・シープラザ牛窓跡(有料老人ホーム)
・みまさか荘跡(特別養護老人ホーム)
景観が良く、静かな立地という国民宿舎の条件は、高齢者施設と非常に相性が良かったことが分かります。
③ 後継施設として形を変えた例
・玉野荘 → ダイヤモンド瀬戸内マリンホテル
・桃李荘 → 足湯・公園施設
・雪舟荘→廃止後、入れ替わりでサンロード吉備路がオープン
完全な断絶ではなく、「機能を変えて生き残った」ケースです。
特にサンロード吉備路に関しては、雪舟荘と同じ国民宿舎として誕生しており、移転リニューアルとしてもいいくらいです。
④ 現役(もしくは休業中)の施設
・良寛荘
現役といっても津黒高原荘は国民宿舎を脱退しており、良寛荘は指定管理者となる業者が選定できないまま休業に入りました。
私の持っている資料のままの形で残っているのは、今回のシリーズで唯一の国民休暇村である蒜山高原国民休暇村のみです。
つまり国民宿舎という形に限れば、一覧にあった施設の全てが何かしらの形で変化していました。
なぜ国民宿舎は姿を消したのか
理由は一つではありません。
・観光スタイルの変化(個人旅行・車移動)
・公営施設としてのコスト負担
・建物の老朽化
・指定管理者制度の限界
・人手不足
特に近年は、「引き受けたくても人が集まらない」という構造的な問題が顕在化しています。
良寛荘の休業は、その象徴的な例でしょう。
それでも、記録として残す意味
今回改めて感じたのは、国民宿舎は「失敗した施設」ではないということです。
その時代、その社会の要請に応えて作られ、役割を終えただけとも言えます。
むしろ、観光政策・地域振興・公共施設運営という視点で見ると、非常に示唆に富んだ存在です。
現在のホテルや観光施設の多くは民間によって運営されています。しかし、1970~1980年代という時代を振り返ると、レジャーはもっとシンプルで、その受け皿を自治体が担うことはごく自然な選択でした。
景勝地や温泉地に安価で安心して利用できる宿泊施設を整備することは、当時の地域振興策として十分に機能していたのです。
しかし時代が進むにつれ、レジャーは多様化し、「景色の良い場所に宿を作る」だけでは人を呼び込めなくなりました。利用者の減少に加え、施設の老朽化や人手不足といった問題が重なり、行政が主体となって観光を支え続けるモデルは、次第に現実との齟齬を抱えるようになっていきます。
今回のコラムで取り上げた国民宿舎の多くが姿を消すか、あるいは全く別の用途へと転用されている事実は、公共施設を長期的に維持することの難しさを、極めて分かりやすく物語っているのだと思います。
おわりに
現役の施設が残っている場所には、ぜひ足を運んでほしいと思います。
そして、既に姿を消した施設についても、
「かつてそこに宿があった」
という事実を、時々思い出してもらえたらと思います。
1982年の観光便覧は、
単なる古い資料ではなく、
岡山県の観光の歩みを映す一枚の地図でした。


