津山事件決行日の真相|都井睦夫を追い詰めた金銭難と愛憎の連鎖

津山事件の決行日が5月21日になった理由と、金銭的困窮という背景

1938年(昭和13年)、岡山県苫田郡加茂町行重の貝尾集落で発生した津山事件
この事件が5月21日に決行された理由については、資料や研究書の中で一定の見解が示されています。

一般的に挙げられる理由は、都井睦夫と関係を断ち、集落を離れていた女性2人が里帰りしてきたことです。
この点については、事件直後に本人が書き残した遺書の中にも明確に記されています。

対象となる女性は2人。
都井睦夫はこの2人に対して強い愛憎の感情を抱いていました。
その2人が同時期に集落へ戻ってきたことは、彼にとって「願ってもないタイミング」だったと考えられます。
本人の心理の中では、天意や神の思し召しのように受け止められていた可能性すらあるでしょう。

しかし一方で、彼女たちが戻ってこなかったとしても、事件の決行は時間の問題だったのではないかという見方も存在します。
その根拠として挙げられるのが、都井睦夫の深刻な金銭的困窮です。

都井睦夫は、事件前年の1937年頃から凶器となる銃器類の収集を始めていました

しかしこの時期、祖母の味噌汁に薬物を混入したと疑われる騒動が発生し、警察による家宅捜索を受けています
その結果、集めていた銃器は没収されてしまいました。

つまり、凶器の調達には二重の費用がかかることになります。
このため、都井家は自宅などを担保に借金をする事態に陥っていました。

さらに、結核を発症しやすい家系であることが集落内に知れ渡った後は、女性と関係を持つためにも金銭を支払っていたとも言われています。
こうした事情が重なり、都井家の家計は完全に逼迫していました。

事件後に自宅を調べたところ、残されていた現金はわずか66銭
現在の価値に換算しても、数千円程度にしかならない額だったとされています。

事件後、睦夫の姉は家屋を処分してわずかな金を得、それを借金返済に充てたと伝えられています。
担保次第では、さらに借金できた可能性は否定できませんが、経済的に極限状態にあったことは疑いようがないでしょう。

憎しみを抱いていた女性たちの帰郷は、確かに犯行日を決定づける直接的な引き金となったと考えられます。
しかし実際には、日々の生活すらままならないほどの困窮状態が、事件決行を避けられない段階まで追い込んでいた――
それが津山事件の現実的な背景だったのではないでしょうか。

そして、この異変に祖母が気づいていなかったとは考えにくいとも思えます。
集落で30人もの命が奪われる事態を予測していたとは考えられませんが、「何かが起こる」という不穏な兆しは、すでに感じ取っていた可能性があります。
だからこそ味噌汁に薬物を入れた事を知った時、警察沙汰になるほどの騒ぎになったのではないでしょうか。




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