ラッパの英雄の真実:船穂町「白神源次郎記念碑」と歴史の教科書から消えた謎

船穂町で高瀬通しの遺構などを見ていると、近くに白神源次郎の記念碑がある事に気づきました。
意図せず別の施設の訪問だけで思っていましたが、このような場所にあるとは思いませんでした。もう少し市街地寄りの場所だと勝手に想像していました。

白神源次郎は明治27年に日清戦争に従軍していた際に戦死した、日本の軍人だった人物です。


こちらが記念碑です。
陸軍歩兵一等喇叭手白神源次郎祈念碑」とあります。
喇叭手…、つまり突撃ラッパを吹く役割を与えられていた人物です。
一等とは軍人としての基本的な訓練を終えた身分の人物で、下の階級の中位というポジションで、決して高い地位にあった人物ではないことが分かります。
そんな白神が記念碑(※石碑では紀念碑)を建てられたのは、彼がラッパの名手として知られていたことが関係しています。

日清戦争の際に亡くなって尚ラッパを口から離さなかったという兵士が話題に上がりました。
これが白神源次郎だと発表されたのです。当時の世相として、こういう人物を利用するという事もあったのでしょうが、彼は国民的な英雄として人気を集めることになります。なんとエピソードが教科書に紹介されるほどだったそうです。

しかし、そのような状況が変わる出来事があります。

こちらも戦時中の教科書に掲載されていたものですが、同じエピソードを伝えるイラストの解説にある名前は白神ではなく、「木口小平(キグチコヘイ)」になっています。
実は白神源次郎は死んだ時にラッパを口に当ててはいなかったのです。

これには二つの理由があります。
まず白神の死因が溺死であること。
そしてもう一つ、戦死した際に属した第五師団において、白神は喇叭手でなかったことが挙げられます。前述の通り、ラッパ手として評価の高い人物ではあったものの、それは先に兵役を務めた歩兵第21連隊の頃のエピソードだったのです。

その為、調査の結果として同日に亡くなった木口小平がその人であると訂正されました。
なんとなく条件面で矛盾の出ない人物に置き換えただけ…という印象もぬぐえませんが、もはや真偽を突き止めるすべもありません。

ただ当初の発表から7年も経過していた為に、世間の認知を変えるのは容易ではなく、長らくラッパ手としての白神人気が続いたともいわれています。


白神源次郎の記念碑の隣には白神光蔵の記念碑がありました。
源信流という柔術の流派を教えていた人物です。この場所にあるという事は二者は親戚関係にあるのでしょうか。
残念ながら今のところその辺りの資料は見つけられませんでした。




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