私は岡山県護国神社に行く時に、いつも野球場の北側の道を通っています。
今回はたまたま南側の道を通ってみたら、幾つか慰霊碑のような物があるのが見えました。
これは海軍平和神苑という海軍の慰霊碑が幾つか設置されている場所のようです。
という事で今回はそのうちの一つ、岡山県全海軍戦没者慰霊碑をご紹介します。
神社への道の途中に幾つかある石碑類の中でも最も大きな物です。
ではよく見てみましょう。
中央にある一番大きなものが岡山県全海軍戦没者慰霊碑です。
この慰霊碑の横にパネルがあり、そこに趣意書が記されています。
岡山県内の全海軍出身者の戦没英霊10,952柱の追悼の為に建立された事が記されています。
尚、石碑にぼんやりと人影が浮かんで見えるかも知れませんが、それは私なのでご安心ください。
岡山県が発表する軍人・軍属などの戦没者数は日中戦争以降で10,289人とされています。
少し数字の誤差が出るのは、日中戦争以前を扱っているのか、それとも含む範囲の誤差なのでしょうか。
決して少ない差なので少し気になりましたが、今回はおいておきましょう。
参考資料:岡山県出身旧軍人・軍属等の地域別戦没者数(日中戦争以後)
続いてはパネルでも言及の有る菊水慰霊碑です。
これは宇垣 纏とそれに従った17人の慰霊碑です。
宇垣 纏は岡山県出身(現・岡山市東区瀬戸町)の軍人で、海軍中将を務めました。
玉音放送後に自ら乗り込み特攻を決行したエピソードで知られます。
この特攻についてはタイミングによる国の責任問題や、単機ではなく部下を引き連れた事による批判も少なくありません。
その為に一定の条件を満たした中将を死後に大将に昇格させる内規を満たしていたにも関わらず、宇垣は中将のままとされています。
しかしこのような立派な慰霊碑が作られている事からも、少なくとも岡山ではその行動への理解や評価がなされていると考えて良いのではないでしょうか。
供養塔の後ろには宇垣 纏の前述の話しについて記した石碑もあります。
そして砲弾の形をしたこちら。
何か文字を書いているようにも見えたのですが、気のせいかもしれません。
先の趣意書を読んだ方はご存知かと思いますが、菊水慰霊碑は2代目です。
初代の老朽化が目立つようになったので、現在の慰霊碑が新たに作られました。
それが平成16年のことです。
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