都井睦雄と雄図海王丸
かつて津山事件の代表的な文献とされた筑波昭氏の著書『津山三十人殺し-村の秀才はなぜ凶行に及んだか』。この本は、事件の被害者名の仮名の出典となり、多くのメディアが参考にしました。しかし近年、その内容に矛盾点が指摘されるようになり、著者の脚色や創作が含まれていた可能性が浮上しています。
そうした中で、犯人である都井睦雄にまつわる、これまで語られてきたエピソードのいくつかが、事実ではないと見なされるようになってきました。その一つが、今回のテーマである「雄図海王丸」という小説の存在です。
筑波氏の著書では、都井睦雄が近所の子供たちに、自身が雑誌で読んだ小説を子供向けにアレンジして読み聞かせ、やがてオリジナルの小説「雄図海王丸」を執筆したと記され、その内容の一部も掲載されていました。
しかし、このエピソードが事実ではない可能性が高いと考えられています。実際に、『津山事件』の草想社版に掲載されていたこの小説に関する記述は、後に刊行された新潮文庫版では割愛されています。現在の津山事件を扱う多くのメディアでも、この小説に関する話題は触れられなくなってきています。
どうして事実ではないとされた?
雄図海王丸の存在が疑問視される主な理由は以下の通りです。
- 津山事件報告書における言及の欠如: 事件の公的な記録である『津山事件報告書』では、事件に直接関係のない事柄についても詳細に記述されていますが、都井睦雄が小説を執筆していたというエピソードには一切触れられていません。もし事実であれば、都井睦雄の人間性を物語る上で極めて重要な要素として記載されていてもおかしくないでしょう。
- 事件関係者へのインタビューでの不在: 後に行われた事件関係者へのインタビューでも、都井睦雄が小説を書いていたという話題は出てきませんでした。
- 『津山事件の真実』での検証: 津山事件の重要な研究書である『津山事件の真実』では、雄図海王丸が矢野龍渓の『浮城物語』をベースにしていること、そして残されている原稿用紙の筆跡が、都井睦雄の遺書に見られる筆跡と異なることなどが指摘されています。
さらに、同書では著者である筑波昭氏自身へのインタビューも行われていますが、筑波氏は小説の原稿を「後で人づてで本人(都井睦雄)からもらった」と語るなど、証言の信憑性自体に疑問符がつく発言もありました。このインタビューでは他にも「あまり深く調べないで書いてしまった」「現地には一度しか行っていません(※滞在期間は一週間)」といった発言も確認されており、これらの内容はWikipediaにも採用されています。
『津山三十人殺し』には、他にも実在しないとされる人物の存在や、本文中の矛盾点なども見られるため、資料としての信憑性には疑問が呈されています。
ただし、公平を期すために補足すると、このインタビューを受けた時点で筑波氏が高齢(2011年で83歳)だったことも考慮すべきでしょう。原稿を故人である都井からもらったとする発言や、他にも会話がかみ合わない部分が見られることから、やや認知症が進んでいた可能性も否定できません。高齢での発言をもって、断定してしまうのは危険な判断かもしれません。
交流の事実と残された謎
仮に小説「雄図海王丸」の部分が事実ではなかったとしても、事件の最後に都井睦雄が顔見知りの少年から紙と鉛筆を借りたエピソードなどから、彼が地元の子供たちと交流していたという点は事実であると考えられます。
事件から長い時間が経過し、新たな事実が明るみに出ることは期待薄ではありますが、都井睦雄の人物像や事件の背景には、まだ解明されていないエピソードが残されているのかもしれません。
なお、このブログ記事を書いている私自身も、上記のインタビューなどを見る以前から、筑波氏の著書の信ぴょう性には疑念を抱いていました。
犯人の都井や一緒に暮らしていた祖母が既に亡くなっているにもかかわらず、内側の描写が細かすぎる点などから、フィクション要素が多く含まれていると判断し、読破には至りませんでした。細かな矛盾点を解明したわけではありませんが、そうした違和感が、この本の信憑性を疑うきっかけとなりました。
