少し前に「笠岡市のたどり着けない場所」についての考察の記事を書きました。
周囲を海と線路に囲まれた家で、どこからたどり着けるのか分からないというスポットでした。
結論としては過去には行けたけど、人が住まなくなってルートが無くなった…という事ではないか?という軟着陸になりました。
その時に現地を訪れて調べており、候補の一つに光明院という寺院にルートがあるのではないか?というものがありました。
その光明院、予想外にインパクトのある寺院でした。笠岡市の市街地から金浦のレトロな街並みを歩き、住宅の少なくなる辺りに寺院があります。
…が、ちょっと様子がおかしい。

こちらです。
門の向こうに見える風景が明らかに廃です。
これはこれでテンションが上がるわけですが、あわよくばお寺の人から先のスポットの真相を聞き出そうと思っていたので、ちょっと拍子抜けです。
光明院の歴史について軽く触れておきましょう。
光明院は高野山真言宗の寺院です。
福山城の殿様、水野勝成公が漁師たちの教育のために建てさせた寺子屋が始まりのお寺で、近年まで「遍照庵」と呼ばれていました。
勝成公は若い頃、西浜で漁師たちと交流し、彼らが読み書きできないことに心を痛めた経験から、この寺子屋を開かせました。
「遍照庵」は大正9年(1920年)に「光明院」と改称されています
かつて大正時代までは、境内近くの船着き場から金刀比羅宮行きの船が出ていた歴史も持ちます。
では門の向こう側を見てみましょう。

草むら。
明らかに管理が行き届いていません。
草の間を縫うようにけもの道のような道があるのは、多少の人の出入りがあるのと、ここに墓地がある為でしょうか。
墓地については門ではなく道路側から草を突っ切らずに通れる道もあるので、やはり最低限の管理が行われているのかもしれません。

確かに郵便物は比較的新しいものが入っています。
全く管理されていなかったら、ポストがパンクしてこんなきれいな状態ではありません。
月に何度か…くらいでしょうか。
住職がいなくなり、どこかの寺院と掛け持ちのお坊さんになったという感じではないでしょうか。
実際、そういう寺院は特に田舎で増えています。日本人の宗教離れと同時に、地方の人口数万人程度の規模の都市だと規模の小さな寺院は食べていけないんですよね。
私の知人にも僧侶がいますが、給料の遅配…なんて話を聞かされて驚いたことがあります。
閑話休題。

本堂です。
枯草を前に撮ると威厳にかけてしまう部分がありますが、1827年に建てられたものなので、もう少しで200年という事になります。
ちなみに本堂の戸は固く閉ざされており、中を見ることは出来ませんでした。
実は光明院の公式サイトが普通に残されています。
2017年に作られたサイトで、葬儀の費用も公開しておりややビジネスライクな感じさえ受けます。
どこまで込みなのか分かりませんが、通常なら通夜、告別式、戒名、前倒しの初七日までが葬儀のワンセットのカウントになります。それで30万円です。
正直、私の地元や都市部の感覚でいえば真言宗としてはやや高めの方だと思います。しかし檀家の少ないエリアの寺院という事で考えれば妥当な金額なのかな?と思いました。
サイトが作られた8年前までは寺院に住職がいて、普通に運営されていたのでしょうか。
それとも兼務の寺院が宣伝のためにサイトを作って、問い合わせ窓口にしているのか。

建物のガラス越しにまだ若い年代とおぼしき僧が微笑んでいる写真がありました。
彼は元気にしておられるのか、それともいなくなってしまったのか。
また周辺を散策する機会があれば、ご近所の方に聞いてみましょう。
…とはいうものの、寺院周辺ではあまり人と出会いませんでした。人が少ないという事は檀家が少なく、寺院の大きな収入源である葬儀、法要も少ないという事です。
難しい時代になってきましたね。

