【浅口市】鴨方町の発展に尽力した「田村占義」の墓にお参りしてきた

浅口市の細川通董の墓所を見に行った際のことです。
鴨方の長川寺の霊園の中にあるのですが、その時にひときわ目を引く…というか、ぶっちゃけ細川通董の墓所よりも目立っているお墓がありました。

田村占義という方です。


墓の敷地内に胸像が設置されています。
服装からも判るとおり、戦時中には軍人として活躍したそうです。

実は墓石に生前の功績について記されているので紹介します。
まず軍人としては最終の階級は海軍中佐だったようですが、陸軍参謀としても活躍した事が記されています。
海軍中佐というポジションがどれくらいになるのか調べてみましたが、上から5番目のポジションで艦船の館長を務めるようなこともあるそうです。

それが38歳のときのことです。この像も恐らくその頃の姿を再現したものなのでしょう。
墓は昭和57年(1982年)の建立です。通常なら亡くなって墓を建てる流れでしょうが、半生について記したり手が混んでいることを考えるとこの時点で存命だった可能性も考えられます。

墓石の四面の内、三面にこのような文章が刻まれています。


紹介していきましょう。
まず果物出荷組合を創立したことが紹介されています。
これは農協と園芸出荷組合に発展していったようで、30年間も2つの組織の組合長として活躍した事も記されています。終戦後は農業の発展に尽力したのですね。

そしてもう一つの内容が山陽自動車の建造のための用地買収の窓口となる「鴨方町地権者会」の会長も努めていたことです。こちらは昭和53年の出来事です。
地域の人から慕われていた人柄が伺えますが、用地買収の金銭面の補償について交渉の席についていたようで、公団から20億円という金額を引き出すことに成功しています。
土地の価値については現在の土地価格との比較をすると高速道路が通った後の価値になってしまうので、単純に比較することは出来ません。
単純にあまり発展していない郊外の土地として考えると23億円くらい、立地がいい場所だったとするともう少し高い評価になるかもしれません。どちらにしてもかなりの金額を引き出すことに成功しています。
これは地権者に十分な取り分をもたらしたという事だけではなく、用地取得を進めさせることで高速道路建造の一助になったということでもあります。

第二次世界大戦の末期、恐らく苦しい戦況で采配を振るっていた人物。しかし終戦後の余生も冒険に満ちたものだったんだろうなぁと思いました。人のために活躍し続けた田村さん。
長川寺にお参りする時は、こちらのお墓にも手を合わせておきたいですね。




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