3か月ほど前の記事で高梁市の山中鹿介の墓を紹介しました。
尼子氏の武将で、主家の滅亡後も忠誠を尽くしその再興の為に動いた「尼子十勇士」の一人です。
毛利輝元に降伏しその拠点がある備中松山城に移送される途中で暗殺されました。
降伏こそしたものの、まだ仇討ちの機会を狙っている事を警戒された為の暗殺と言われています。
首は首実検の為に備中松山城に送られましたが、胴体は当初は放置されていたようですが、後に観泉寺の住職が寺のある赤羽根地区(高梁市)で埋葬したと言われています。
現地にも同様の事を記した案内看板があります。
案内板では石田畑という場所に埋葬したとあります。
この石田畑というのは文字通りの畑ではなく、古墳だったようです。中にある石棺に埋葬したのだとか。
きちんとした場所に埋葬してあげたいという敬意の表れなのでしょうが、まさか他の人のお墓(=古墳)をその場所に選ぶとは…。
古墳に埋葬されている期間は長く、約300年に及びました。
それが移されたのがこちらの胴墓です。
埋葬されたと言い伝えられていた石田畑を調べたところ、石棺の中に山中鹿介の物と思われる骨が発見されたのです。
ただしこの時に石棺の中に頭蓋骨はありませんでした。首実検の為に移された頭部は体と共に埋葬される事は無かったようで、胴体のみが埋葬されました。
落合町が見晴らせる少し高台になっている場所に胴墓があります。
立派な墓石からも、忠臣としての山中鹿介の人気の高さが伺えるようです。