岡山市の岡山県護国神社の参道で菊水慰霊碑を見た後、斜面を少し上っていくと次は独立臼砲第十八大隊慰霊碑がありました。
道路沿いの看板で「無窮の碑」と記されているのがここの事のようです。
独立臼砲第十八大隊とはなんぞや?と思ったら、石碑に刻んでありました。
独立臼砲第18大隊昭和19年4月和歌山県加太にて編成 総員648
岡山鳥取京都を軸に二府七県歴戦の精鋭を集め8種の兵科を統合したる軍直轄独立大隊にして5月北海道小樽にて北部軍編入…とあります。
独立臼砲第十八部隊は岡山県の人も多く参加している隊だったようです。
部隊は同年の6月に北千島北方派遣軍に配属されたようです。後にソ連と交戦することになる千島列島のことでしょう。
石碑を更に読み進めると考えさせられる一節がありました。
15日終戦の大詔されど北溟の島に終戦なく16日領土脱掠を企図するソ連軍は占守島に対し砲爆撃を反復強行更に国端地区竹田浜に17日深更不法上陸侵寇し来る肉弾邀え撃つ三晝夜水際の敵屍3千余驕敵の野望を完全に破砕するも友軍の犠牲また350
栄光なく記録なき終戦後の戦闘に唯々敵の侮りを排し民族の誇りに殉ぜるは日本人本来の姿愛国の至情と云うべきか
玉音放送で日本の軍隊の戦闘が完全に止まったわけではありません。
この時点では自衛の為の戦闘はまだ容認されており、千島でもソ連に攻め込まれた日本軍は徹底抗戦しています。
石碑の文章にもある通り、日本はソ連に対して優位に戦いを進めていましたが、政府の意向で停戦する事になります。
終戦、日本の敗戦が決まった時点での戦闘行動。
「栄光無く記録なき」という一文に切なさを覚えます。そこを乗り切っても勝利の栄光は無く、そしてどんな戦果を上げても評価されることもない。そんな状況でソ連と対等以上にやりあった精神力には恐れ入ります。
臼砲弾も一緒に飾られていました。
部隊はその後、シベリア抑留を体験することになります。
この慰霊碑は千島列島での戦い、そしてシベリア抑留の際に亡くなった人の為に建てられたようです。