母の若年性認知症についてまとめておこうと思う


母が息子を理解しなくなって、もうずいぶんと長い月日が経ちました。
若年性認知症です。
進行性とか、その辺りの診断が出たのも5年くらい前でした。

予兆

病気の予兆があるのか?
もっと早く気づいて病院に行っていれば…とは言うものの、意外と予兆はなだらかでした。
50代に入った辺りから日常生活にミスが増える、何かの更新の手続きを忘れて慌てる。
その程度のレベルから始まるので、母ももう悪くないよなぁと。そんな感じです。

ヤバイなと思い出したのは、子供を忘れた辺りでした。
症状が顕著化し始める頃、僕と姉は結婚して家を出ていました。
特に姉は大阪に住んでおり、年に3回程度の帰郷だけだったので早かったです。

今になって思えば喜怒哀楽がはっきりと分かれるようになりました。
心配する必要もない程度の税金の支払いを不安がったり、テレビに出てくるタレントに急にマジギレしたり。
後、大の読書家だった母ですがその頃から一冊の本を読みきれなくなっていました。
一週間程度の間隔で実家に帰ったら、まだ同じ本を読んでいた…なんて事もザラでした。
頭に入ってこなくなっていたのでしょうね。

子供は意外と忘れられる?

前述の通り、家族の中で一番最初に判らなくなったのは姉でした。
そして家族の中で次に忘れられたのが僕でした。

家族の絆があって最後まで判る…なんて事は無くて。
同様の体験をしている方は多いようですね。
母の場合は子供、母の兄弟(僕から見ると叔父、伯母)の順で忘れ、最後まで残ったのは父(母の夫)でした。
おぉ、愛の力か!…なのかどうかは不明ですが、在宅の最後まで父が介護していた事が大きかったようです。

後、意外となところでは父方の祖母が忘れられませんでした。
つまり母から見ると姑ですが、祖母は家族が把握している限りで母が一番最後に名前を呼んだ人間です。
しかし残念ながら祖母はそれから少しして他界しました。
ちなみに母が現時点で最後に名前で呼んだ相手は姑ではなく、飼い猫でした。
【ミーア】という猫で、母は【ミーちゃん】と呼んでいました。
息子をあっさりと忘れて、猫が最後まで…!なんだか釈然としませんねぇ。

病院

進行性の認知症であるという診断がされる1年ほど前から精神科の病院に通っていました。
既に認知症の初期程度に進行しており、認知症テストでもかなり低い点数しか出ていませんでした。

これは多くの方が通る道だと思いますが、本人の性根がはっきりしている時期に連れて行くのは難しいです。
本人が自分自身に不安を抱いていれば別ですが、残念ながらうちの母はその辺りはしっかりしており、ちょうど更年期障害の時期でもあったのでそのせいだとして病院に行くのは遅れてしまいました。

色々な検査や薬を試していましたが、通院から約3年ほどで自分では何も出来ない状態になりました。
そして進行性との診断から5年目、在宅を終えて施設へ入所しました。

施設か在宅か

できるだけ在宅でというのは父の希望でした。
ただ父親はまだ現役で働いているので、やはり症状が進むとヘルパーなどの制度を使っても家に一人になるのが難しくなってきました。
既に歩くことも、自発的な飲食も出来ない状況でした。
火器などは最大限排除しましたが、それでも火事などの危険性も考えられます。

施設へ移って少しして、母が引きつけを起こし呼吸が出来ない状態に陥ってしまう出来事がありました。
もちろん母から事情は聞けないので施設の方の推測ですが、足がつってどうして良いか判らずにパニックになってそうなったのではないか?との事でした。
在宅でつきっきりで看ていられるわけではないですし、もしも在宅で父が不在時であれば母はその時点で死んでしまったわけですから、我が家の状況としてもそこまでが限界でした。

後、こんなセリフも。
「こんな人はどこかに隔離して下さい」
ご近所の方からのご意見した。
前述のような火事などの事件が起こる危険性を考えれば当然の意見だと思います。

課題だったこと

認知症が進むに連れて、一番しんどかったのは初期~中期くらいです。
様々な症状は出ていても、まだ大人の人間としての知識なども充分に残っていて行動的なので、非常に難しい時期です。

まず運転免許証。
言動はおかしくとも、まだ運転もきちんとできるし、本人に性根もある。
しかし家族としては運転をしてほしくない。
このジレンマはとても大きなものでした。
しかし免許は意外とあっさり返納できました。
母は免許取得からずっと無事故無違反できた人でしたが、それが年に3度も捕まってしまいました。
病気による気分の落ち込みもあってか、そのショックはとても大きく、本人の希望で車の運転はやめてしまい、免許も更新をしませんでした。

誤って運転をしないように、父が運転する車の鍵も厳重に管理するようになりました。

次が徘徊です。
これはちょうど、線路に侵入してしまった認知症患者の家族への損害賠償等のニュースが流れていた時期だったので、とても警戒していました。
家の鍵を全て外からも施錠するように直して対処しました。
それでも3回ほどの徘徊をしており、概ね生まれ育った実家に戻っていました。

そして障害者年金の申請でした。
これで詰まったのは、病気がいつから始まったのか?です。初診日ですね。
まだある程度しっかりしていた頃に母が「別の病院でも診てもらった」と発言しており、その病院を確定するのに非常に時間がかかりました。
恐らくこれは虚言だと思います。診てもらった事実はないのが真相だと思いますが、その言葉が医師に作成してもらった資料に掲載されているので、可能性がありそうな病院全てに電話か訪問をするという事態になりました。

実は母は認知症の症状が顕著になる少し前に意識を失って救急車で運ばれています。
結局、この時に搬送された件を初診日とすることになりました。
推理小説のようですが、無い事を無いと証明するのは非常に難しい作業です。

 

現在と感想

現在、母はほぼ寝たきりに近い状態で暮らしています。赤ちゃんに近い状態ですが、稀に会話が成り立ったりすることもあります。
余命などのこともそろそろ頭によぎる時期になりました。

しかし自分のことは判らなくても、実の親なので一日でも長生きをして欲しいと思います。

母が認知症に掛かって、色々なことがありました。
世間は意外と優しくないし、偏見のようなものは幾らかあると思います。
また冗談のような話ですが、水やら宗教じみた話やら「認知症が治る」何か美味しい話ももちこまれました。
ただコレに関しては「効く何かがあるなら、もう世の中に患者はいないはずだ」という事を自分自身に言いつけて「奇跡は信じずに、家族で頑張ろう」と決めました。
もし奇跡が起こって、母がもう一度だけでも僕の名前を呼んでくれるなら…。そんな心の弱さをついて来ようとする人間も少なからずいるのです。

怖いですね。

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