このブログを始めた頃に母の病気について触れたことがあります。
他に症状が進んだ時期の携帯電話の解約についての記事もありますが、どちらもブログ内ではよく読まれている記事です。
母の病名は若年性認知症。
恐らく同じような境遇で奮戦されている方が記事を読んで下さったのだと思います。
それらの記事以降で母の症状について触れたことはありませんでしたが、この記事で認知症の家族がおられる方に最期を伝えられればと思います。
症状の進行について
母の認知症の症状が顕著になり始めたのは50代の半ばです。
ちょうど私の結婚の時期で、式の準備をしたり新たに部屋を借りたりという作業が重なっていました。
この時期にちょっと普通ではない状態が続きました。
と言っても私は忙しさの中心に居たので状況は家族から聴くばかりで把握できていませんでした。
しかし結婚式の中で事件が起こりました。司会者がアドリブで母親に話を振った時に「私、母親じゃないですよ。」と大笑いを始めました。この時はぎょっとしました。
その頃の母は家族を認識できるかどうかはその日の調子次第になっていました。
54歳のことです。
家に居たのは62歳までです。
まだ若かった母のことを考えた父の意向で、ギリギリまで家で介護をしました。
しかしその頃には自発的な食事が難しくなっており、まだ家族が現役で働いていた事もあり、その時点で老人ホームに入所することを選びました。
ちなみに在宅中に行った家の改造は下記の通り。
・電化住宅
ガスや火は危険なので電化にしました。
石油ストーブも電気ファンヒーターやエアコンに置き換えました。
・ドアの二重ロック
徘徊の対策です。
外に内側から開場できないロックをできるようにして、母が1人で出かけないようにしました。
ストレスの対策のために、夜に散歩をして溜飲を下げてもらっていました。
・ドアチェーンの除去
不用心ではあるもののドアチェーンは外しました。
中からチェーンをされると私達が入れなくなる為です。
・車の整理
これは改造ではありませんが、母が乗らなくなった車は早々に処分しました。
家に車が残っていると、免許を持っていた時の記憶で運転してしまう為です。休みなどで家に在宅の時も車の鍵は各自がポケットなどに入れて持つように徹底していました。
症状の進行は施設に移動後も着々と進み、家に居た頃は手伝いながらで出来ていた食事も完全介護になりました。
これは施設の意向もあったと思います。自分で食べられると言っても一食に1時間以上を費やしていましたので、施設の中ではそれでは片付けも出来ないので食べさせる方にシフトしたのでしょう。
重度の認知症のその後、死去まで
そして64歳くらいから痙攣を起こして呼吸が止まりかけるような症状が出るようになりました。
当時の施設を運営していた医者の話では、脳の萎縮が進み何かが起きた時に体が反応できなくなっている…という旨の説明でした。
例えば足がこむら返りを起こした時に、私達なら痛くないように足を伸ばしたりします。それが出来なくなると痛みのショックで痙攣を起こしたりするのだとか。
この辺りは素人が聞いた話なので、正確さは保証しかねます。しかしこむら返りくらいの症状で生命の危機に陥るようなこともある。それが認知症の最期の症状なのだそうです。
最初に認知症の診断をくだされた時に遠回しな表現でしたが、一般的には余命があまり長くはないということを聞かされました。それはこういうことだったのでしょう。たとえ体が若くても脳の萎縮に伴い生命の維持が難しくなるのです。
そして66歳の時点で同じ医師から母の残りの人生についての相談がありました。
同様の理由でもう食事は難しい。誤飲なども死に繋がるためです。
点滴などで最低限の栄養補給をしながら死期を待つ事、それが提案でした。
母の余命については数ヶ月以内とされました。
ただしその病院の設備では難しいものの、胃ろうなどでもう少し長く生きる可能性も提示されました。
たまたま玉野市内の別の病院に姉の幼なじみで、私も姉同然に慕っている方が勤務しており、その力添えもあって転院することになりました。
ここで母は逝去するまで2年を過ごすことになります。
私は前の病院での提案や対応を冷たいとは思いません。
転院先の病院で検査した結果、母の脳は萎縮が非常に進んだ状態になっていました。担当の医師が自身の患者では初めて見るほどと表現していました。
なので記憶は勿論、感情を司る部分もほとんど残されていないだろうという見立てです。
この状態で長生きする事が正解なのかどうか。それは家族のエゴなのかも知れません。
2年間という時間については、家族それぞれに考えるところがあると思います。最初の病院の提案のように無理なく数ヶ月という期間で逝かせてあえるのが優しさという意見もあるでしょう。
しかし2年間を生きたお陰で、母は上の孫の中学校の制服と下の孫の小学校の制服を見ることが出来ました。しかも最期の面倒を見てくれていた看護師は娘同然に可愛がっていた人です。(本人に認知する機能は残っていなかったはずですが)
私はそれだけでも2年を頑張った価値はあったのではないかと思います。
死因は血が喉に詰まった事による窒息だったそうです。
母は転院して以降もチューブで口から薬や栄養を補給していました。転院先の整った設備なら、その状況でも数ヶ月と言わず生きることが可能だったようです。
そのチューブの接触から僅かに出血していたのが、なにかの拍子に多めの出血になったのではないか。
そしてそれを飲み下す事が出来ずに窒息したのではないかと、そのような説明を受けました。なので危篤状態などで親族が集まる機会はなく、急に死亡が伝えられる突然死でした。
68歳。
日本人の平均寿命を思えばまだ若いですが、それでもネットなどで見ていると若年性認知症を患って症状が顕著になり始めてから14年程という数字は寧ろ長いようです。
息子としてはよく頑張ってくれたと誇りたいと思っています。
介護の中で思い出されるのは実家で飼っていた猫です。
認知症が進み気難しくなった時期も含め、常に母を癒やし続けてくれました。猫を抱いている時は穏やかな顔を取り戻していました
そして私が把握している限り、最後まで名前を忘れなかったのはなんとその猫でした。
母が施設に移って少しして老衰で亡くなりました。猫なりに母を気遣って、旅立つのを待ってくれていたのかと思うことがあります。今頃は再会して、久し振りに母の膝の上を堪能していることでしょう。