津山事件、当時の報道
津山事件の翌日(1938年5月22日)、山陽新聞(当時の名称は合同新聞)の新聞記事を見つけたのでご紹介します。
以下、合同新聞1938年5月22日より転載。
九連発の新式猟銃と猪狩り用の銃弾百発を用意して阿修羅のごとく暴れまわり、付近村民二十八名を射殺、二名に重症を、一命に軽症を負わしてそのまま付近の山林へ逃げ込み、平和な山境をたちまち恐怖のどんどこに突き落とした戦りつすべき一大惨劇―岡山県苫田郡西加茂村大字行重字貝尾、都井睦雄(二二)は二十一日午前二時ごろ、ガバとはね起き同居中の祖母いそさん(八〇)の寝込みを襲いマキ割り用のオノで首をはね飛ばした上、兼ねて用意せる猪狩り用の九連発と同弾丸をたずさえ、頭と胸に三個の懐中電灯をしりつけて表に飛び出し付近の電柱にのぼりトランスのスイッチを切断、つづいて同所、寺元太一氏(五九)方の表戸をけ破って侵入……
このような記事で紹介されていました。
…なんて句読点の少ない文章なんだ。
津山地方とは
現在は西加茂も津山市に含まれていますが、当時は独立した自治体でした。
この事から、「津山事件は津山で起こったわけではない」という話をよく聞いたものです。
しかし西加茂と津山を混同しているとも言い切れません。
広域な地域としての「津山地方」に西加茂が含まれており、その意味では津山事件で別に間違いという見方もあります。
当時の広域地名としての津山がどれくらいの範囲だったのかは資料が見当たりませんでした。
岡山県が就農支援の為に行っている「岡山県担い手育成総合支援協議会」が掲げる津山地方は「津山市、鏡野町、久米南町、美咲町」です。これが当時の津山地方とイコールとする論拠もありませんが、津山地方というのは広域な範囲を指していたと捉えるのは飛躍しすぎではないでしょう。
どちらにしても現在は津山市なので、もうそういった話を耳にする機会もどんどん少なくなっていくのでしょうね。