トップ > コラム・岡山空襲を学ぶ-復興編3

市街地の風景(2005年撮影分)

『闇市』

 食糧難の時代

 岡山大空襲から2ヶ月も経たず日本は終戦を迎えますが、他の地方都市と同じく様々な物不足に陥っていました。
 当時、限られた物資の消費を抑制する為に『配給制度』が行われていました。
 しかし戦争によるダメージや、自然災害によって農産物の収穫量も落ち込んでおり、岡山県でも焼畑によって新たな耕作地の開発に勤しんでいました。
 しかし、人々の体はそうした努力が実るまで待ちきれるものではありませんでした。
 昭和20年の1~11月の間の栄養失調による死者は乳幼児を中心に214人に上りました。

 現在、一日に必要な摂取カロリーは1,800~2,200kcalだといわれていますが、それを保つためには配給以外の方法で食料を入手する必要がありました
 それが『闇取引』と言われる方法で、そうした闇取引での食料の売買が出来る場所を『闇市』と呼び、非常に高額な値段での取引が行われていました。

 取扱商品
 闇市では雑多に非常に多くのものが販売されていました。
 中には衛生面などで問題があるような物もあったそうです。
 取り扱われている商品を多い順に並べると、青果・麦類日用雑貨魚介類…といった順位になるようです。
 農産物が多いのは、お金を持っている人が農村部で買い集めてきて、販売するというケースが多かったからだそうで、時期によっては一般価格の数十倍の値段で売られていることもありました。

 市街地の闇市

 岡山市街地でも闇市は行われていました。
 代表的な場所は岡山駅前中筋通り~西川後楽園前、そして奉還町~上伊福でした。

 岡山駅前は言うまでも無く交通の要所として賑わっていた場所です。
 そして後楽園前も、当時は西大寺鉄道が通っており、後楽園はその終点となる駅があり、こちらも人の動きが多くあった事から、闇市が賑わっていたそうです。
 奉還町から上伊福にかけてのエリアは、空襲で県庁舎が焼失してしまった為に、現在の岡山工業高校のある辺りに仮庁舎が作られており、こちらも様々な用事で行きかう人々で賑わっていたそうです。

 闇取引、闇市という言葉を見ると、良くない存在のようにも見えますが、東京の裁判官だった山口良忠さんという方が、闇米など食糧管理法違反の方の裁判を担当する立場上、闇市など配給以外での食糧を食べる事を拒否し、栄養失調からの病気で亡くなってしまう事例も起こっていました。
 実際に配給だけで生活するのは事実上難しい状況であり、闇市の存在はある程度は必要悪だったとも言えるのではないでしょうか。

 食料の安定供給へ
 戦後復興が進み、徐々に食糧事情は解決していきます。
 現在でも市街地にある『岡ビル市場』のHPには、岡ビル市場設立に関して、以下のような記述があります。

昭和21年の9月、西川沿いに「岡ビル」の前身である『岡山マーケット』がオープンしました。当時の闇市と区別して、お客さんが安心して買い物できる市場を作ろうという人たちが集まり、マーケットをスタートさせたのです。』(岡ビル市場HP、歴史と概要より)

 値段が高く、更に粗悪品も多く出回っており健康被害なども出ていた闇市は、物資が揃い始め、また適正価格での販売がされるに伴って、徐々に消滅していったようです。
 しかし食料の足りない人々の生活を支え、横行していた泥棒の件数をそれでも抑止するのに効果を発揮したであろう闇市は、やはり岡山市街地や日本各地において、戦後復興の象徴とも言える存在だったのではないでしょうか。
 

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写真:『市街地の風景』
写真提供:プランク


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