トップ > コラム・岡山空襲を学ぶ-復興編1

昭和22年の路面電車

『路面電車の復興』

 はじめに

 コラム『岡山空襲を学ぶ』で一通りの事を学び終えて、その後どのような形で岡山空襲についてを伝えていく事が出来るのか、ずっと考えていました。
 人や街の脆さを痛感させられる岡山空襲を紹介してきたので、ここからは、岡山空襲から人々や町がどのように復興していったのか…、戦災から立ち直った『人の強さ』についてお話しをしていく場に出来ればと思っています。

 路面電車の復興

 岡山市街地の風物詩といえば、岡山電気軌道社が運行する路面電車です。
 チンチン電車の愛称で知られ、現在でもMOMOKUROなどの人気車両があります。

 路面電車の営業は1912年より開始されました。チンチン電車の愛称は、後ろに座った車掌が運転席へ合図をするのに使ったベルの音からきています。
 岡山空襲が発生した際には、現在よりも路線は1つ多く3つの路線が運行していました。
 (※1968年に番町線が廃止されました)

 空襲によって、架線柱と主な電気供給源だった大供変電所が焼失し、車両も三両が被害を受けましたが、東山の車庫や本社が無事だった事から、急ピッチで復旧が進められ、6/29の空襲から約70日後の9/9には岡山駅前~東山駅の区間が部分的に復旧、翌月の10/20には城下から分岐して番町へ向かう番町線も復旧しています。

 未だ戦火の覚めやらぬ時期、岡山市民の方にとってはなかなか復旧が進まない中で、貴重な交通手段として重宝されました。
 上の写真でも、沢山の客が乗り込もうとしており、満員御礼である様子が伺えます。
 傷付いた町の中で、いち早く復旧した路面電車は、多くの人々に勇気を与えた事でしょう。

 1年後には残されていた柳川線が復旧、更に清輝橋にまで延長され、現在の清輝橋線が完成しました。

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写真:『西大寺町周辺を走る路面電車(昭和22年)』
写真提供:どてら親父の隠居部屋


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