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旭川と月見橋

『警報の無いままに始まった空襲』

普段からの備え

 当時は日本各地で空襲があり、岡山でも空襲へ対する備えは行われていました。

 普段から市民に啓発を呼びかける配布物や、もしもの時の防災訓練が行われていた他、各家庭では防火用水を多めに用意しておく、家の庭に荷物を緊急避難させるための壕を用意しておく、大切なものは市外へ運び出しておく…などといった備えです。

 また避難場所も地域ごとに決められており、たとえば爆撃の中心部になった周辺では、西川周辺が避難場所として整備されていたそうです。

警報のないままに始まった空襲

 岡山大空襲での死傷者を増やした要因として空襲警報が鳴らなかった事が挙げられます。
 敵機を確認すると、その向かう方角の地域に警戒警報が出され、更に近づいていることが確認されると空襲警報に変えられ、住民たちは避難に入るはずだったのが、そのどちらも出されなかったのです。

 爆撃機が岡山方面へ向かっていることは、事前に牛窓にあった防空監視哨が把握していましたが、空襲警報を鳴らす許可を出す『中部軍管区司令部』はこれを空襲とは考えなかった事が原因とされています。
 牛窓防空監視哨が事態に気づいてから、最初の攻撃まで4分間。
 滞りなく手続きが進めば攻撃直前に空襲警報を出すことも不可能ではなかったそうです。

 夜中の2時過ぎ、住民たちは何の警告も無いままに空襲を受けることになったのですから、事前の準備通りには行かなかったのではないでしょうか。

周辺の状況

 焼夷弾によって引き起こされた火事で、周辺は非常に暑くなっていたそうです。
 水の中なら大丈夫だろうと、川や溝などへ逃げ込んだ人でも、水が高温になっていたために死亡してしまったケースもあります。
 避難場所も兼ねていた西川ではご遺体で流れが淀むほどだったとも言われています。
 また不意の攻撃で逃げ遅れてしまった為に、また自宅などで用意した防火用の水槽の中で死んでしまった人や、防空壕などへ逃げ込んでそのまま蒸し焼きのように死んでしまった人もいます。

 頑丈な建物だった天満屋(現在の天満屋岡山店)の地下へ逃げ込んだ人もおられます。
 岡山の都市伝説のように天満屋内での死亡者数が様々に語られますが、実際には24名の方がお亡くなりになっています

 また、追い詰められた人々には時には神仏へすがりたいという気持ちがあったのか、周辺の寺社の周辺でも多くの人がお亡くなりになっていた事も伝えられています。
 火に焼かれて死ぬか、それとも水の中で死ぬのか…絶望的な選択肢の中で、防火水槽の中で手を合わせていたご遺体もあったそうです。

 岡山空襲を罹災した人の中には、疎開して岡山空襲に遭った永井荷風さんもおり、彼は旭川の方へ避難していた事が記録されています。
 不運なことに、彼は東京に続いて二回目の空襲だったそうです。



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写真:『旭川と岡山城』
撮影:岡山の街角から

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