トップ > コラム・岡山空襲を学ぶ-復興編2
『岡山城の再建』
■ 焼失した岡山城
岡山空襲で焼失した文化財の中に、岡山城天守閣も含まれます。
市街地のシンボルであった岡山城の焼失は、多くの市民に衝撃を与えました。
現在見られる天守閣(上写真参考)は、戦後に再建されたものです。
そうした経緯から、岡山城は戦火を逃れた月見櫓、西の丸西手櫓のみが国の重要文化財に指定されているのです。
■ 再建への流れ
失われた天守閣をもう一度、蘇らせたい―。
そんな想いは、空襲直後から多くの市民の中にあったのではないでしょうか。
再建へ向けての具体的な動きが起こったのは、人々の生活が落ち着きを取り戻し、安定していた1960年の秋頃の出来事でした。
(写真:焼失前の岡山城天守閣)
旧岡山藩士などを中心とした『岡山城再建期成同盟会』が結成されたのです。
会の活動により、岡山城天守閣再建へ向けた機運は高まっていきました。
そして活動を市が受け継ぎ、いよいよ再建へと向かっていくのでした。
■ 蘇る天守閣
復興に関する予算は寄付金によって賄われました。
市民からの寄付金の他に、当時衆議院議員だった逢沢 寛さんが1億5千万円を寄付するなどしています。
逢沢 寛さんは、県内の大手建設会社・アイサワ工業社の前身である中国土木社の創業者でもあります。
しかし城の設計のようなものがあるわけではなく、天守閣の設計の為に用いられたのは、なんと1927年に早稲田大学の学生が卒論で作成していた実測図でした。
これを元に設計が行われ、岡山城は再建されました。
工事は1964年~1966年にかけて行われ、焼失した天守閣の他に、明治時代に撤去されていた廊下門、不明門、六十一雁木上門、堀の一部なども再建されています。
その多くはコンクリート工法によるもので、外観のみを復元したものです。
建築法の規制などもあり、元々の外観と多少異なる部分はありますが、威風堂々たる天守閣が蘇り、空襲から二十余年、岡山市街地は本来の姿を取り戻したのでした。
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写真:『現在の岡山城天守閣』
写真撮影:岡山の街角から
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