トップ > コラム・岡山空襲を学ぶ-復興編2

KURO

『岡山城の再建』

 焼失した岡山城

 岡山空襲で焼失した文化財の中に、岡山城天守閣も含まれます。
 市街地のシンボルであった岡山城の焼失は、多くの市民に衝撃を与えました。
 現在見られる天守閣(上写真参考)は、戦後に再建されたものです。
 そうした経緯から、岡山城は戦火を逃れた月見櫓西の丸西手櫓のみが国の重要文化財に指定されているのです。

 再建への流れ

焼失前の天守閣 失われた天守閣をもう一度、蘇らせたい―。
 そんな想いは、空襲直後から多くの市民の中にあったのではないでしょうか。

 再建へ向けての具体的な動きが起こったのは、人々の生活が落ち着きを取り戻し、安定していた1960年の秋頃の出来事でした。

(写真:焼失前の岡山城天守閣)
 旧岡山藩士などを中心とした『岡山城再建期成同盟会』が結成されたのです。

 会の活動により、岡山城天守閣再建へ向けた機運は高まっていきました。
 そして活動を市が受け継ぎ、いよいよ再建へと向かっていくのでした。

 蘇る天守閣
 復興に関する予算は寄付金によって賄われました。
 市民からの寄付金の他に、当時衆議院議員だった逢沢 寛さんが1億5千万円を寄付するなどしています。
 逢沢 寛さんは、県内の大手建設会社・アイサワ工業社の前身である中国土木社の創業者でもあります。

 しかし城の設計のようなものがあるわけではなく、天守閣の設計の為に用いられたのは、なんと1927年に早稲田大学の学生が卒論で作成していた実測図でした。
 これを元に設計が行われ、岡山城は再建されました。

 工事は1964年~1966年にかけて行われ、焼失した天守閣の他に、明治時代に撤去されていた廊下門不明門六十一雁木上門、堀の一部なども再建されています。
 その多くはコンクリート工法によるもので、外観のみを復元したものです。
 建築法の規制などもあり、元々の外観と多少異なる部分はありますが、威風堂々たる天守閣が蘇り、空襲から二十余年、岡山市街地は本来の姿を取り戻したのでした。
 

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写真:『現在の岡山城天守閣』
写真撮影:岡山の街角から


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