荒坂峠の断層|幕末の熱狂と、昭和の静寂が交差する場所
津山事件の終焉の地として知られる荒坂峠。
犯人の都井睦雄が自害したこの峠には、実は事件から約70年前、歴史の大きなうねりが刻まれていました。1866年(慶応2年)、幕末の混乱と飢饉の中で起きた「美作改正一揆」です。
仁木直吉郎と加茂の誇り
この一揆のリーダーの一人、仁木直吉郎は、奇しくも津山事件の舞台となった加茂町行重の出身でした。
彼らが荒坂峠で掲げた旗に呼応し、集まった群衆は数万人規模にまで膨れ上がったといいます。
結果として津山藩を動かし、救済米や要求の一部を認めさせたこの一揆は、農民たちの「勝利」と言えるものでした。
首謀者でありながら明治維新後に釈放された仁木は、加茂の地で一種の英雄として語り継がれていたはずです。
英雄の地、あるいは逃亡の果て
睦雄はなぜ、最期の場所にこの峠を選んだのでしょうか。
単に集落を見下ろせる場所だったからかもしれません。
しかし、加茂で育った彼が、郷土の歴史……特に「抑圧された者が立ち上がった聖地」としての荒坂峠の記憶を、全く知らなかったとは考えにくい。
- 一揆:理不尽な藩政に抗い、未来を切り拓こうとした公的な決起。
- 事件:理不尽(と彼が感じた)な疎外に抗い、全てを破壊した私的な復讐。
同じ峠に立った二人の加茂出身者。一方は街を救った英雄として、もう一方は未曾有の凶行の主として。このあまりにも皮肉で重い歴史の対比に、荒坂峠という場所が持つ抗いがたい「引力」を感じずにはいられません。
結びに代えて
睦雄の胸中に、仁木直吉郎のような「歴史を変える者」への憧憬が微かでもあったのか。村八分に悩まされていた睦夫にとって、彼の凶行はかつて仁木が津山藩を動かしたように、自身が田舎の持つ封鎖的な一面を打破したというような自負があったのかもしれません。
答えは闇の中ですが、荒坂峠の静寂は、今もその二つの「叫び」を記憶し続けています。
