日本の英雄譚として著名な「忠臣蔵」。
お隣の赤穂藩の出来事とあって、岡山にゆかりの藩士も少なからず含まれます。
例えば中心人物の大石内蔵助は下津井城主を務めた池田由成の孫です。(関連リンク:下津井城跡)
討ち入りの為に江戸へ発つ際には、母の実家である天城池田家を訪ねたという伝聞もの残されています。
今回はその中から神崎与五郎に関連するスポットとして、津山市の徳守神社の歌碑を紹介します。
徳守神社の境内に設置されたこの歌碑。
海山は 中にありとも 神垣の 隔てぬ影や 秋の夜の月
徳守神社の祭礼を偲んで詠んだとされる和歌です。
興味深いのは詠まれたのが津山藩に仕えていた時期ではなく、討ち入り前の1701年とされている事です。
吉良上野介に攻め入れば自分たちの処遇がどうなるのかは分かっていたはずです。そんな時期に故郷を偲んでいたというのが、四十七士の心境を伺わせます。
ところで当地の案内板には「森家の改易で赤穂浅野家に仕官した」とあります。
森家の末期養子として藩主を継いだ森 衆利が将軍に謁見しに行く道中で幕府批判を行い、森家は改易の憂き目にあいました。
森家は2万石に減ぜられ、多くの藩士らが浪人になりました。このタイミングで赤穂藩に移ったとされます。これが1697年の出来事なので、神崎与五郎は僅かな年数を使えただけの主君の為に命を投げ出して参加したことになります。
ただしこのタイミングには諸説あり、別の理由から津山藩を離れる事になったという説もあります。
wikipediaを覗いてみるとこの森家の改易による仕官という説を否定する内容も紹介されていますが、この記事でその辺りを深堀するのはやめておきましょう。