和気町の大國家旧宅は国指定の重要文化財です。
最大の特徴は比翼入母屋造である事で、民家としての採用例は唯一のものと見られています。
運送業・酒造業で財を成した…と、現地の案内板にあります。
今回はそんな大國家の歴史について調べたのでご紹介します。
まず大國家ですが、大國を名乗ったのは明治時代に入ってからで、江戸時代は大森家を名乗っていました。
森から國へ。江戸時代中期から財を成してのし上がった大國家の勢いを感じさせるエピソードです。
大國家は代々名主を務める由緒ある家ではありましたが、現在伝わるように商業的な成功を収めるのは18世紀の中頃に入ってからです。
当時の大國家では弟ばかり寵愛される事を不服に思い、家を継がずに酒造りの修行に出た武介という男がいました。
長男でありながら弟に家を継がせ、自分は分家になった…という斜陽の人生かと思いきや、この酒造りが大成功。大國家は一気に財を成しました。
この住宅もその時代に建てられたものです。
当時の周辺に住む百姓は貧しさに苦しんでおり、大國家の元にはお金を貸してほしいという依頼が多く舞い込んでいました。
しかし多くは返済が出来ず、結果として大國家には返済代わりの土地が集まってきました。
こうして大國家は事業をさらに発展させていきました。
最盛期を物語るエピソードとして、大國家は自分が所有する田んぼだけを歩いて三石にまで行くことが出来たという物があります。それはさすがに大げさとしても、大國家の影響が現在の備前市にまで及んでいたことが分かります。
大國家の歴代当主は決してお金を貯め込むばかりではなかったようで、岡山藩にも献金したりお金を貸した他、周辺の寺社などへの寄進も積極的に行っています。
藩への借金、献金により武士の身分を手に入れましたが、江戸時代も後半になると旗色が変わってきます。
藩札が新札に切り替わり価値が下落した為に、借金をしていた百姓らは旧札で弁済を行い、更に岡山藩には踏み倒されてしまいます。
更に明治時代に入ると鉱山業に着手するも事業は上手く進まず、更に当主の急逝も重なって明治20年頃には事業家としての大國家は終焉を迎えました。