津山事件を報じた新聞記事の中に「悲劇の勇士」という見出しがあります。
以前から気になっていたものの、記事の内容がはっきり読める資料が無くてジレンマに陥っていました。
ようやく内容を確認できたので紹介します。
悲劇の勇士は誰?
悲劇の勇士は津山事件の際に都井睦雄の襲撃を受けた家の一軒の家族です。資料内に戸主として実名も確認できますが、ここでは「勇士」を呼称とします。
本人が兵役に出ていた際の出来事でした。
本家と分家で7名の死亡者を出し、老婆一人が生き残った…という旨の記述があるので、睦雄が最初に襲撃したと思われる家の戸主と思われます。(関連リンク:津山事件の殺人の詳細)
この家では勇士の母、弟2人、そして妹1人の4人が殺害されました。更に同じ名字で3人の死亡者と1人の生存者のある家があるので、恐らくこの二つの家が勇士の本家と分家なのでしょう。
老婆は命乞いするも受け入れられずに銃撃を受けましたが、奇跡的に全治5週間ほどの重症にとどまりました。筑波昭著の「津山三十人殺し」には事件後は余り長く生きられなかったとありますが、後述するように兵役で離れていた勇士を出迎えるなど、生存者としての務めを果たしていた事が伺えます。
少し話が反れますが、津山事件が起きた時期は日中戦争の最中で若い男性は兵役で戦地に赴いていました。
この事が事件発生の要因として挙げられます。若い男性がいない為に、女性が兵役前の青年である都井睦雄と性的交渉を持つようになった事。そして睦雄が肺の病気の為に徴兵検査で実質的な不合格とされる「丙種合格」となった為に、集落内での差別的扱いが始まった事です。
勇士の帰郷
話しを悲劇の勇士に戻します。
地元で大量殺人が起き、実母や弟妹が殺害されるという異常事態の為、戸主である勇士は貝尾集落に戻ってきました。
それを出迎えたのが唯一の生存者となってしまった老婆です。続柄について正確なところは判りません。分家、本家の関係であるので大叔母か祖母と思われますが、前述の記事内で「老婆」としか故障されないので、大叔母が有力ではないかと思います。
帰郷後の詳細は触れられていません。
恐らく村で行われた合同葬に参加し、亡くなった親族らを送ったのでしょう。
新聞のインタビューに対しては戦中の非常時なので私事で御奉公がおろそかになってはいけない、弔いを済ませたら一日も早く軍務に服したいと答えています。
戦中なので新聞などの外に出るメディアに対して滅多な発言をすれば大問題になります。そのように応えざるを得なかったというのが本音でしょう。もしかすると上からそのように応えるように指示が出ていたのかもしれません。
本音がどうだったのかは、今となっては知る由もありません。