「津山事件を学ぶ」のコンテンツを作るのに、公式資料である津山事件報告書を読み込んでいますが、ちょっと興味深い記載があったのでこれについて紹介します。
津山事件の発生をサムハラ神社の祟りとする声が一部にあったのです。これはネット検索などでも関連キーワードに出てくることもあるので、御覧になった方もいると思います。

サムハラ神社は大阪に鎮座し、矢避け弾避けのご利益で多くの武人や兵士の信仰を集めました。
実は伝承の起源は津山にあり、それが大阪に移されました。

1935年に津山市で荒廃していたサムハラ神社の起源となる祠を 田中富三郎という人物が再建しました。
現在は伝わっていないブランドですがPUSH萬年筆という製品を作っていました。彼自身もサムハラのご利益で戦争から無事に戻れたそうです。

しかしこの時は特高警察により神社は撤去されてしまいます。
当時の国家神道の考えと、サムハラ信仰は相容れなかったようです。戦後に再建されたのが、現在のサムハラ神社の始まりとなります。
その津山のサムハラ神社、現在は奥宮として祀られていますが、実は津山事件が起きた加茂町(当時)にあり、距離的にも現場の貝尾集落から徒歩38分程度と近い場所です。


これが津山事件報告書に出るような祟りというのはどういう事なのでしょうか。
距離的には津山事件の犯人である都井睦雄が訪れた可能性も充分に考えられますが、肺病を患っており、更に徴兵検査では戦地に赴く事のない丙種合格だった彼が矢避け弾避けのご利益の為に険しい山道を進む必要があるサムハラ神社を訪れたというのは現実的ではないように思います。もちろん神のする事なので訪れた事が無い近くの集落の青年に祟りを及ぼす事が出来ないとも限りませんが。

前述の報告書には次のように記載があります。

サムハラ大神の祟りなりと一部に風評する者あるも地元部落に於ては之に関心を有する者なし
(引用:津山事件報告書、注・サムハラの部分は漢字ですが、PC表示できない文字なのでカタカナにて記載)

要するに騒ぎ立てる人はいたけど、地元では歯牙にもかけないような感じだったという事です。
恐らくサムハラ信仰を持っていた人たちがたまたま近くで起きた事件に関して、祠を撤去したからこんな事件が起こるんだ!と結びつけて意趣返しのように騒ぎ立てたという事ではないでしょうか。
津山事件が起きた貝尾の人々は事件が起きた経緯については判っているでしょうし、そんな超常現象的な意見に耳を傾ける気などなかった筈です。当時の状況や真実は判りませんが、個人的にはそのように考えました。
被害者側である貝尾の人々にとっては、気にしないというより事件を利用されたようになって、余り気持ちよくなかったのではないでしょうか。




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