後楽園の歴史(完成まで)
後楽園が出来るまで
日本三名園の一つに数えられる後楽園は、岡山藩時代の大名庭園です。
最初に後楽園の歴史を辿っていってみましょう。
後楽園の築園は池田綱政が藩主の時代に行われました。
綱政が岡山藩の藩主となった頃、岡山藩は様々な問題を抱えていました。
天災が多発した事や、岡山城の防備の為に旭川の流れを変更した反動で洪水が続いており、藩の財政は非常に厳しい状況でした。
そこで新田開発などで財政の立て直しに取り組み、洪水の対策として放水路である百間川を作るなどの対応に追われました。
そうして藩にも余裕が出来てきた段階で作られたのが、後楽園です。
岡山城の初代藩主である宇喜多家が、小姓(武将の身の回りのお世話をする職業)を集めて作った小姓町の場所が用地に選ばれました。
工事~完成へ
後楽園を作る中心人物として選ばれたのは津田永忠です。
綱政や、先代の光政が重用した人物で、先述の百間川の工事、新田開発、そして閑谷学校の建設など、土木工事に関して非常に秀でていました。
1687年末頃に着工、そして工事一通りが完成したのは1700年です。
総面積は東京ドーム3個分に相当する、133,000平方メートル。
更に操山、芥子山などの周辺の山々を借景(周辺の風景を庭園のコンセプトに盛り込む手法のこと)としています。
1700年に工事は完了しましたが、後楽園には厳密な『完成』という概念はないものとされています。
その後も代々の藩主が自らの好みや、藩政の状況などで手を入れて変化し続けて現在に至ります。
前身・モデル
後楽園には前身とも言える庭園と、モデルとされる庭園があります。
それぞれを紹介してみようと思います。
・東湖園(岡山市北区)
岡山市の中心市街地に『東湖園』という庭園がありました。
門田屋敷にある庭園で、時の藩主である池田忠雄が遊息所として作りました。後楽園に先駆ける庭園として知られています。
後楽園はこの東湖園をより大きく整備したものだといえるでしょう。
※2013年廃止、建物や庭園は現存しません
・総社宮(総社市)
総社市にある総社宮は、境内に立派な庭園を有しています。
三島式庭園といわれるスタイルで、この庭園が後楽園を作る際の参考にされたと言われています。
境内を歩いていると、規模の違いこそあれ、両者が似た景観である事に気付かされる事でしょう。
関連リンク
目 次
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写真
上『後楽園全容』(写真提供:岡山県)
中『東湖園』(写真提要:岡山県)
下『総社宮』(写真撮影:岡山の街角から)
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