TOPコラムコラム・岡山の事件簿>56.茂政の隠退と砲撃

岡山城

『池田茂政の隠退と砲撃』

なぜ? 早々に隠退した池田茂政


 池田茂政は1863年に岡山藩主に就任したものの、1868年には病気を理由に早々に藩主を隠退しました。
 しかし本当の理由は病気ではありません。

 大政奉還が起こり、岡山藩にも徳川家の将軍である徳川慶喜を討つ旨を記した討幕の密勅が出されました。
 しかし茂政にはこれに応じられない事情がありました。
 慶喜と茂政は兄弟です。
 藩のためとは言え、兄弟を討つことは出来なかったのです。

 隠退は自らが討伐軍に参加する事を回避するための苦渋の選択でした。
 

茂政への砲撃


 茂政が隠退を決める前日に、岡山城に砲撃が行われたという記録があります。
 これは茂政への隠退を迫る目的で行われました。

 茂政が藩主である限り討伐軍への参加はならない。
 その状態を引き伸ばすのは、岡山藩にとって良くない事です。
 岡山藩の上層部も茂政の早い決断を待っていました。

 砲撃は隠退を促す目的のもので、茂政以外の家臣が裏ですり合わせて実行したものだったのです。
 茂政も空気を察知したのか、その翌日に隠退を決めました。


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写真:岡山城
写真撮影:岡山の街角から


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