浮洲岩跡
詳細
■ 所在地:倉敷市粒江
(粒江公園から南へ徒歩2分程度)
■ 営業時間:見学は24時間可
(※ただし照明などはなく、足元も良くないので日中が推奨)
■ 駐車場:無し
浮洲岩跡
倉敷市粒江の田んぼの中に浮洲岩と名前の刻まれた石碑があります。
かつて名石として知られた浮洲岩があった場所です。
周辺が海だった頃、浮洲岩は潮が満ちても海面から岩の一部が覗いて見えていました。
その様子が浮島のようだと例えられた事から、浮洲岩と名付けられました。
石碑のある場所は倉敷市粒江ですが、藤戸町との境界の辺りに位置しており、一般的には藤戸町の史跡として語られます。
浮洲岩の別名も「藤戸石」です。
失われた浮洲岩
記事のタイトルにも「跡」とある通り、浮洲岩は倉敷に現存しません。
浮洲岩は室町幕府3代将軍の足利義満によって金閣寺に移されたのです。
この後も浮洲岩は更に移動を続けます。
まずは細川氏の分家・細川典厩家の庭に移され、更に織田信長の手によって二条城に移されました。
更に豊臣秀吉が自らの拠点として築いた聚楽第に移され、最終的に京都市の三宝院に置かれて現在に至っています。
※画面中央奥が藤戸石
このようにそれぞれの時代の権力者たちに愛でられた藤戸石は、元々石のあった倉敷でも誇らしい存在だったようです。
1645年に周辺を干拓する際、浮洲岩があった場所が失われないようにと現在の石碑が建てられました。
石碑に刻まれた文字は池田光政のもとで藩政改革に取り組んだ熊沢蕃山によるものと伝えられています。