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備中高松城址

備中高松城

詳細

国指定:史跡
所在地:岡山市北区高松
建設:1335年
営業時間:24時間見学可
(資料館は10:00~15:00)
入場料:無料

高松城の歴史


 岡山市北区の高松にある備中高松城は、学校で勉強した歴史の重要な出来事の舞台になったお城です。

 備中高松城は三村家の家臣だった石川家が築城しました。

 備中兵乱で三村家が敗北し、清水宗治が城主になりました。
 その後、城は織田信長が毛利家を攻めようとした中国攻めの際に豊臣秀吉(当時は羽柴姓)によって落とされました。

 備中高松城は広い堀を持ち、また周辺を湿地帯に囲まれた防御に優れた城です。

 その為に秀吉も苦戦を強いられました。
 そこで低湿地帯にある城の立地と梅雨の時期であった事を利用して、城の周辺に堤防を築いて水が貯まるように仕組み、城は陸の孤島になりました。

 周囲を水に囲まれた為、補給物資や、援軍を待つ事も出来なくなりました。
 この奇抜な手法は、後に『高松城の水攻め』と呼ばれるようになりました。

中国の大返し


 冒頭でこの城について学校で学んだという事を書きましたが、それが中国の大返しと呼ばれる出来事です。

 備中高松城の落城寸前に織田信長が『本能寺の変』で命を落とします。

 岡山で高松城を攻略しようとしていた秀吉は、清水宗治の切腹を条件に取り急ぎ和議を成立させます。
 そして僅か10日ほどで京都まで引き返し、明智光秀との決戦へ挑みます。
 この強行軍が『中国の大返し』です。

 つまり中国の大返しのスタート地点が、備中高松城なのです。

現在の様子

 清水宗治が切腹した後、城は新たな城主を迎え存続しました。
 しかし江戸時代の初期に廃城になりました。

 現在、城址は公園として整備されています。
 天守閣などの建物の遺構は残されていませんが、配下の為に切腹をした清水宗治さんの首塚や、備中高松城に関する資料館などがあります。
 周辺では水攻めの際に秀吉が作ったとされる堤防の跡が発掘されています。

 ところで、清水宗治の切腹は見事な作法で行われ、それを見ていた秀吉も後に「宗治は武士の鑑である」と語った程でした。
 そしてこの事から、武士の切腹=名誉ある死という考え方が興ったのだそうです。


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写真撮影:岡山の街角から

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