TOPコラムコラム・岡山の事件簿>74.山竹抗争

竹

歪な? 山竹抗争

山竹抗争とは


 1989年~1990年にかけて、岡山市に拠点を置く暴力団組織が山口組から襲撃を受ける「山竹抗争」と呼ばれる抗争事件が起こりました。

 事件の発端は山口組の四代目組長・竹中正久が殺害された事です。
 四代目就任に関するいざこざが原因で、竹中の就任に反発した組織で形成される一和会と山口組の間で約5年間にも渡る抗争事件が勃発しました。
 最終的に一和会の解散と会長・山本 広の引退により和解に至りました。

和解のイメージ

 しかし山口組には竹中正久の実弟である竹中 武が率いる竹中組がありました。
 身内を殺された恨みは強かったのでしょう。和解を決めた山口組を離脱し、引き続き山本 広の命を狙い続けました。
 離脱したとは言え元山口組の幹部が命を保証した山本を殺害したとなっては面倒な事になります。そこで山口組の元組長の敵を討とうとする竹中組を山口組が攻撃するという奇妙な抗争が起こったのです。

詳細


 事件の始まりは1989年7月3日です。
 岡山市北区新京橋の竹中組事務所が銃撃を受けます。そして5代目の襲名が終わった後の8月頃から各地の竹中組事務所への攻撃が激化していきます。

 この抗争の途中で竹中組が事務所の本部を岡山に移した為、抗争の中心は徐々に岡山へと移る事になります。死者が出た件も含め多くの銃撃事件が発生しました。
 1990年4月には警察が監視する前で山口組系の組がショベルカーを突っ込ませる大きな事件も起こっています。

 これらの攻撃で竹中組は疲弊し、所属する組員も激減していました。
 そして6月に一和会本部長宅襲撃の指揮をとったとして組長自身が逮捕されます。
 山口組、竹中組の双方から終結に関する発言はありませんが、この時点で山竹抗争は終結したようです。

 ところで「抗争」という表現は用いられているものの、竹中組から山口組への反撃は行われていません。粛々と元一和会の山本 広への復讐の準備が進められていました。
 憎いのは実の兄を殺害した一和会だけというスタンスを貫き通したのです。


<<前のページへ   TOPへ戻る   次のページへ>>

関連リンク


写真:イメージ


 -戻る-



ページトップに戻る