3月20日‐赤穂浪士が切腹した日 岡山県出身の四十七士はいるの?
3月20日‐今日は何の日?
今日は1703年に忠臣蔵で知られる赤穂浪士が切腹をした日です。
彼らは殿の刃傷沙汰でお取り潰しになった赤穂藩の武士です。
主君の仇討の為に認証沙汰の相手方である吉良吉良上野介義央の邸宅に乗り込み、吉良義央を始めとする15名を殺害しました。
事件の後は4つの大名屋敷に分けられ、この日に切腹となりました。
実際に屋敷へ潜入したのは47人とされていますが、切腹したのは46人です。
寺坂吉右衛門という足軽が事件後に一行から離れています。
これについては足軽という身分を鑑みて逃したという説、何かしらの使命を受けて離脱したという説、そして逃亡説などがあります。
切腹後は主君と同じ泉岳寺へ埋葬されました。
岡山出身の四十七士はいるの?
現在の岡山県出身の四十七士は四人が知られています。
早水藤左衛門満尭、茅野和助常成、神崎与五郎則休、横川勘平宗利です。
・早水藤左衛門満尭
早水藤左衛門満尭は岡山藩の家臣の元に生まれました。
家督は兄が継いだ為に、赤穂藩の家臣である速水家の養子になりました。
刃傷事件が起こった際は江戸におり、赤穂藩に第一報を伝える為の急使となりました。
・茅野和助常成
茅野和助常成は津山藩の家臣の元に生まれました。
しかし津山藩を追放されてしまい、赤穂藩にて再仕官となりました。
こういった経緯もあり、赤穂藩に仕官した期間は僅か4年程度でした。
俳人としても知られており、辞世の句として”天の外はあらじな千種たに 本さく野辺に枯るると思へは 世や命咲野にかかる世や命“があり、津山市の屋敷跡に歌碑が作られています。
・神崎与五郎則休
神崎与五郎則休は茅野和助と同じく津山藩の家臣の元に生まれました。
後に津山藩を離れて浪人をしていましたが、赤穂藩で再仕官しました。
この再仕官は先に赤穂藩に来ていた茅野和助の仲介によるものだったのではないかと考えられています。
・横川勘平宗利
横川勘平宗利は津山藩の重鎮として知られた各務元正の家系に生まれました。
なので津山出身ではないかと考えられますが、父は浪人の身分だったので詳細は不明です。
その後、赤穂藩に仕官しています。
茶人の手紙の代筆を請け負っていた事から、吉良邸で催される茶会の情報をキャッチ。
その日なら吉良上野介が在宅であろうという事で、討ち入り日が決められました。
・その他
岡山出身ではないものの、岡山と関連がある人物は他にもいます。
・千馬三郎兵衛光忠
妻は岡山藩士津川門兵衛の娘で、息子の宣忠は事件後に岡山藩に召し抱えられています。
・大石内蔵助
母は天城池田家の当主の娘・池田熊子です。
天城池田家の四代当主は従兄弟にあたり、失職した赤穂藩士の集団移住を受け入れたとも言われています。
事件後には大石内蔵助の縁者として厳封も受けています。
コメントを残す