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岡山城

『呪い殺された岡山城主!?』

小早川秀詮とは

 岡山城の城主といえば、戦国時代を駆け抜け、岡山を大藩に育て上げた武将、宇喜多家と、池田家、池田家宗家が知られています。
 しかしその間に、小早川秀詮(秀秋)が一代のみ城主を勤めていました。
 関ヶ原の戦いにおいて、西軍の主力として戦った宇喜多家が改易とされた為、その後を引き継ついで岡山城に入っています。
 関ヶ原の戦い前が3万7千石の大名だったのが、岡山藩51万石に出世したのには、小早川秀詮の戦功が関係しています。

 小早川秀詮は、関ヶ原の戦いの勝敗を決したといっても過言ではない働きをした事で知られています。
 当初、敗退した側の西軍として戦いに参加しましたが、元々東軍と通じており、タイミングを見計らって裏切りに転じて西軍へ攻め込んでいったのです。

 この裏切りにより、西軍は総崩れの状態となり、当初は押され気味だったとされる東軍の勝利を呼び込んだのです。
 

僅かな期間の城主

 しかし小早川家が岡山城の城主だったのは1600年~1602年と、ごく僅かな期間でしかありません。
 享年21という若さで、小早川秀詮が急逝したのです。

 この時に小早川家は世継ぎが居ない『無嗣断絶』として改易され、その後に池田忠継が岡山藩の城主となりました。
 なので岡山城主として城の拡張や検地、寺社の復興などの業績はあるものの、歴代の宇喜多家や池田家と比べると、少し印象が薄くなってしまっているようです。

呪い殺された城主!?

 小早川秀詮は先述の通り、若く急逝した為、死後に妙な噂が流れていました

 関ヶ原で、小早川家によって攻め込まれ、自害に追い込まれた西軍の武将・大谷吉継は、切腹する直前に『人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん』と、小早川秀詮へ向けた呪いの言葉を残したといわれています。

 しかし関ヶ原の功労者として出世をした小早川秀詮にとっても、関ヶ原の戦い以降の生活は決して華やかで楽しいものだったとは言えないようです。
 あくまで俗説ですが、晩年には奇行が目立ったと言われています。
 それを諌めた重臣の杉原重政は殺害され稲葉正成も被害が及ぶのを恐れ、城を離れてしまいました

 裏切り行為に対する自分自身の良心の葛藤や、周囲からの裏切り者というレッテルに悩んでいたとも言われています。
 他方、大谷吉継の亡霊に悩まされ、精神的に病んでしまった末の出来事で、その死も『三年の間に祟りをなさん』とした呪いの言葉によるものだったのではないかと、まことしやかに囁かれていたのです。 

死因

 小早川秀詮の実際の死因はアルコールによる内臓疾患だと言われています。
 アルコール依存症と考えられ、飲酒を好んでいたとする記録も残されています。
 その為か、なんと19歳時点での診断で黄疸が出ており、アルコール性肝障害を患っていたと考えています。

 この場合、奇行も肝機能の低下に伴う肝性脳症で説明がつきます。


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画像
『現在の岡山城』(撮影:岡山の街角から)





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