TOPコラムコラム・岡山の事件簿>3.呪い殺された岡山城主!?

岡山城

『呪い殺された岡山城主!?』

小早川秀詮とは

 岡山城の城主といえば、戦国時代を駆け抜け、岡山を大藩に育て上げた武将、宇喜多家と、池田家、池田家宗家が知られています。
 しかしその間に、小早川秀詮(秀秋)さんが一代のみ城主を勤めていました。
 関ヶ原の戦いにおいて、西軍の主力として戦った宇喜多家が改易とされた為、その後を引き継ついで岡山城に入っています。
 関ヶ原の戦い前が3万7千石の大名だったのが、岡山藩51万石に出世したのには、小早川秀詮さんの戦功が関係しています。

 小早川秀詮さんは、関ヶ原の戦いの勝敗を決したといっても過言ではない働きをした事で知られています。
 当初、敗退した側の西軍として戦いに参加しましたが、元々東軍と通じており、タイミングを見計らって裏切りに転じて西軍へ攻め込んでいったのです。

 この裏切りにより、西軍は総崩れの状態となり、当初は押され気味だったとされる東軍の勝利を呼び込んだのです。
 

僅かな期間の城主

 しかし小早川家が岡山城の城主だったのは1600年~1602年と、ごく僅かな期間でしかありません。
 享年21という若さで、小早川秀詮さんが亡くなってしまったのです。

 この時に小早川家は世継ぎが居ない『無嗣断絶』として、改易され、その後に池田忠継さんが岡山藩の城主となりました。
 なので、岡山城主として城の拡張や検地、寺社の復興などの業績はあるものの、歴代の宇喜多家や池田家と比べると、少し印象が薄くなってしまっているようです。

呪い殺された城主!?

 小早川秀詮さんは先述の通り、非常に若くしてお亡くなりになった為か、死後に妙な噂が流れていました

 関ヶ原で、小早川家によって攻め込まれ、自害に追い込まれた西軍の武将・大谷吉継さんは、切腹する直前に『人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん』と、小早川秀詮さんへ向けた呪いの言葉を残したといわれています。

 関ヶ原の功労者として出世をした小早川秀詮さんにとっても、関ヶ原の戦い以降の生活は決して華やかで楽しいものだったとは言えないようです。
 あくまで俗説ですが、晩年には奇行が目立ったと言われています。
 それを諌めた重臣の杉原重政さんは殺害され稲葉正成さんも被害が及ぶのを恐れ、城を離れてしまいました

 裏切り行為に対する自分自身の良心の葛藤や、周囲からの裏切り者というレッテルに悩んでいたとも言われています。
 他方、大谷吉継さんの亡霊に悩まされ、精神的に病んでしまった末の出来事で、その死も『三年の間に祟りをなさん』とした呪いの言葉によるものだったのではないかと、まことしやかに囁かれていたのです。 


<<前のページへ TOPへ戻る 次のページへ>>


関連リンク

画像
『現在の岡山城』(撮影:岡山の街角から)





 -戻る-



ページトップに戻る