TOPコラムコラム・岡山の事件簿>4.岡山県南百万都市建設計画

幻の岡山市

岡山県南百万都市建設計画の頓挫』

岡山県南百万都市建設計画


 2009年、岡山市は大掛かりな合併を行い政令指定都市へ移行しました。
 実は時代を遡ること数十年…1962年にも、岡山市は政令指定都市への移行目前まで進んだ事がありました。

 上の画像が際に浮上した新・岡山市で、黄色い部分が合併によって一つの市になる予定でした。(※島部分はそれぞれの所属の市町村に伴います)
 1961年に当時の県知事だった三木行治が提唱した大規模な市町村合併の計画、『岡山県南百万都市建設計画』です。

 岡山市、倉敷市という県内の二大都市を含む合計33の市町村を合併する事で、人口100万人で国内の主要都市に並ぶ規模の市を作る壮大な計画です。
 実現していれば広島市より先に中国地方初の政令指定都市に指定された可能性が高かったと考えられています。
 

計画の概要

 大規模な合併計画が作られた背景には、飛躍的な成長を続ける水島臨海工業地帯の存在がありました。
 水島の影響で周辺の開発が進むのは間違いないありませんでした。

 しかし日本の従来の都市部が余り計画を立てず、雑多に発展していった事を鑑みて、岡山県は水島の成長に合わせて計画的に都市開発を行う事を検討します。
 その核として出てきたのが新・岡山市です。

 市内の各地域を計画的に開発していく事で、効率よく、そして地域の格差も抑えた理想的な都市を作り上げる構想でした。
 また、大きな市を作ることで、様々な恩恵が得られる『新産業都市』の制度(現在は廃止)への指定を受け易くする目的もあったそうです。

反対の3市

 合併の計画は途中までとんとん拍子で進みました。
 しかし途中から岡山市倉敷市児島市(※現・倉敷市児島地域)が合併に反対の立場をとるようになっていきました。
 それぞれの市が反対した理由は下記の通りです。

岡山市
 合併する市町村の中でも最大規模の岡山市にとって、他の市町村との合併は実は余りメリットがありませんでした。
 合併後はとても大きな市になるので、従来のような手厚い行政サービスが出来なくなるのではないかとの懸念等から、合併に反対したようです。

倉敷市
 倉敷市は合併の根底にある水島臨海工業地帯を抱える市です。
 既に水島から得られる税収は膨大な金額でした。

 合併によって大きな市全体に税収が分配されるより、現状のままで合併をしない方が好ましいと考えたようです。

児島市
 岡山、倉敷が合併のメリットが少ないことを懸念したのに対し、児島市は都市としての方向性に問題を感じていました。

 新・岡山市は計画的に都市を形成していく事を掲げていました。
 その中で児島市は観光の都市として開発を進めていく事が予定されていました。

 しかし水島から近い児島の人々は不安定な観光よりも、立地を活かして工業地帯に関連する企業/工場の誘致を望んでおり、その為に計画に反対したようです。

 それでも県は強気に計画を進めました。
 そして事件が起こります。

強硬な合併計画の阻止

 皆様もご存知の通り、この大規模な合併計画は実現しませんでした。

 では何処の段階まで進んで、なぜ話が立ち消えになったのでしょうか?
 実は合併の調印式当日に計画は頓挫しました。

 倉敷市の市長が必要な書類に記入をしないまま、公印を隠して東京へ失踪してしまったのです。勿論、理由は合併反対の為です。
 これによりギリギリのところで新・岡山市の誕生は阻止されました。

 そして先述の合併反対派だった岡山、倉敷、児島の三市が合併計画から正式に抜ける事を表明しました。
 中心となる市が抜けてしまった為に、他の自治体が合併する意義は失われ、計画は形骸化してしまいます。
 更に合併を主導してきた三木行治が1964年に急逝し、計画は終焉しました。

 岡山市はこの後、県主導ではなく独自に政令指定都市を目指します。
 そして、政令指定都市への移行の基準を緩和する等の特例が出された『平成の大合併』の際に、70万人程度とされた基準をクリアして、長年の目標であった政令指定都市への移行を果たしました。



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画像
『幻の新・岡山市』





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