山陽団地の鉄道 概要
存在しない理由:計画中止
計画概要:岡山駅~山陽団地~ネオポリス
建物:何も出来ないまま終了した
山陽団地とは
昨今、空き地や住民の高齢化が取りだたされるようになったニュータウン。
簡単に説明すると高度経済成長期に都市部に人口が集中した為、郊外に住宅地を建造したものです。言葉としての厳密な定義はなく、1970~1980年代頃に住宅事情から新たに開発された住宅地といった説明が一般的になされています。
岡山県にもいくつかのニュータウンがありますが、その中でもよく知られているのが岡山市街地のベッドタウンとして開発された赤磐市の山陽団地です。
こちがらGoogleマップの航空写真から見た山陽団地です。
先に少し触れた現代のニュータウンの問題もありますが、今回紹介するのは山陽団地に通そうとしていた鉄道についての話題です。
ニュータウンの弊害
山陽団地は時代の最先端をいくニュータウンでした。
岡山市の市街地からの距離も近く家は文字通り飛ぶように売れ、最盛期の人口は1984年の約8,300人にも上りました。
山陽団地の事業開始年度が1969年なので、僅か15年で山陽団地だけで8,300人もの人口が増加したことになります。更にすぐ近くには大和ハウス工業が開発した岡山ネオポリスも完成していました。
この事が団地建造の最初には想定しなかった問題を生み出します。
交通渋滞です。山陽団地の購買層には岡山市街地で働く人々が多く、市街地へ向かう道に大渋滞が発生しました。通常時なら市街地まで20分程度なのが、場所によっては1時間もかかってしまいました。
山陽団地に鉄道を
この状況を打破する為に出た案の中に、山陽団地から岡山駅を通る鉄道路線を作るという物がありました。
団地の近くの駅は渋滞を抜けていないとたどり着けない玉柏駅、距離的にやや遠い瀬戸駅がありましたが、どちらも通勤に使うには余り現実的ではありません。
そこで山陽団地を通る駅を作る事で、車での通勤を減らして渋滞を解消しようと考えたのです。
この案が具体的に検討され始めたのは山陽団地がピークを迎えた直後の1988年です。岡山駅から山陽団地、そして岡山ネオポリスを結ぶ路線でした。
時の県知事は様々な大型公共事業を成し遂げてきた地方行政のプロ、長野士郎さんです。
他の鉄道路線の計画も含め「岡山県新交通システム懇談会」という協議会が発足して議論を進めていましたが、時機悪くバブル経済の崩壊と呼ばれる不況期に配置ます。
同協議会による議論は具体化しないまま、1992年に解散しました。そして鉄道建設へ向けた動きは途絶えてしまいます。
既にこの頃には山陽団地の通勤の利便性の悪さはネガティブな要素として知られるようになっており、団地の人口も徐々に下り坂に入り始めていました。