火葬場の島、タテとヨコ
笠岡諸島の火葬場の島
笠岡諸島の縦島と横辺島は火葬場の島だったと言われています。
どちらも岩ばかりで形成された小さな無人島で、奇しくも名前が対になっている事からタテとヨコなどと呼ばれています。
そしてこちらが横辺島です。
画像を見て「この島で火葬?」と疑問に思った方もおられるでしょう。
火葬場どころか、小屋のような小さな建物の一つを建てるのも難しそうな小さな島でしかありません。
そもそも火葬場の施設などはなく、これらの島でご遺体は野焼きにされていました。
離島に眠る記憶─笠岡諸島に刻まれたコレラと石工たちの物語
かつて日本全土を恐怖に陥れたコレラの大流行。
その猛威は、瀬戸内海に浮かぶ笠岡諸島にも及び、島々の住民たちは大きな犠牲を強いられました。
縦島と横辺島─人目を避けた“死者の島”
当時、コレラによる死者が急増していました。
火葬や埋葬の対応が間に合わなくなった笠岡では、縦島や横辺島といった人の住まない離島が遺体の処理場所として使われるようになります。
というのも、当時の日本では「コレラ死者の火葬時に立ちのぼる煙にも感染リスクがある」といった、誤った知識が広まっていたのです。
こうした背景から、人の目に触れにくい離島を選んだと考えられています。
北木島で働いた“名もなき石工たち”
また、笠岡諸島のひとつ北木島(きたぎしま)は、「北木石」の産地として古くから知られ、多くの石材が切り出されてきました。石工の仕事は危険を伴い、島外から集まった労働者の中には事故で命を落とす者も少なくなかったといいます。
彼らの多くは島内に家族も墓もなく、縦島や横辺島で火葬をしていたのだとか。
潮に流された遺骨と、語り継がれる記憶
当時は身寄りのない者の遺骨が誰にも拾われることなくそのままにされることもあったそうです。やがて骨は潮に流され、周囲の島で見つかることもあったと伝えられています。
現在ではあまり語られなくなったこの話も、島々の風景の奥に潜む“静かな歴史”のひとつです。
観光や石のまちとして知られる笠岡の島々に、かつてそんな時代があったことを忘れないようにしたいものです。