瀬戸大橋物語1
大久保諶之丞の見た夢
■ 最初の架橋構想
現在、本州と四国の間を3つの橋が繋いでいます。
本州四国連絡橋は岡山〜香川、兵庫〜徳島、広島〜愛媛間を陸路でつなぐという、前代未聞の大事業でした。
今回、このコラムでは岡山と香川を結び、事業の最初に着手された『瀬戸大橋』の建造を勉強していきたいと思います。
まず本四を陸続きにさせるという発想がいつ生まれたのかを調べてみると、なんと公式な発言として記録されているのは1988年の瀬戸大橋完成から遡る事、ほぼ一世紀前です。
四国と本州の間にまたがる瀬戸内海に橋を架けるという計画を口にした香川県議会議員の先生がいました。
大久保諶之丞さんという方です。
1889年に行われた讃岐鉄道(現在のJR四国の原型となった鉄道会社)の開通式の際に飛び出した驚きの計画でした。
これが後の本州四国連絡橋の最初の提言であると言われています。
■ 早すぎた提案
大久保諶之丞の先見性に驚かされるものの、当時の人々や、もしかすると発言した本人にとっても、遥かな夢物語に過ぎなかったのかもしれません。
当時の技術でそれだけ大掛かりな橋を作ることは不可能だと思われていたからです。
この発言から25年後の1914年に、徳島県選出の衆議院議員だった中川虎之助さんが『鳴門架橋及潮流利用発電調査ニ関スル建議案』を帝国議会へ提出した時ですら、それはあっさり否決され、彼は陰で笑い者にされてしまったと言われます。
しかし彼らの発言にもある通り、実現を信じるかどうかは別としても、多くの人が陸路によって本州と四国を繋がれば良いのにといった希望を持っていたのです。
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写真撮影:岡山の街角から
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