TOPコラム長島、ハンセン病療養所の島を歩く>14.目白寮跡

目白寮跡

目白寮と明石海人

目白寮跡


 監房のすぐ近くにあるのが目白寮跡です。
 現在は建物も残されておらず、その痕跡も特にありません。

 目白寮は6畳の部屋が4室という住宅でした。
 この跡地が特にフィーチャーされているのは、ここに歌人として著名な明石海人が住んでいた為です。

 この地にある案内看板には、監獄から近い住宅の様子を歌った和歌が掲載されています。

監房に 罵りわらふ もの狂い 夜深く醒めて その聲を聴く

 監房での厳しい措置に精神的に不安定になった方がおられたのでしょうか。
 前ページで入所者が建物を見たくないからと埋め立てる事を要望した事を紹介しましたが、その心情が如実に語られているようです。

明石海人とは


 明石海人は静岡県出身の歌人です。
 元々は沼津で小学校の教員をしており、家庭にも恵まれて幸せに暮らしていました。
 しかし1926年、25歳でハンセン病を発症。
 兵庫県の明石楽生病院で療養を続けていましたが、同病院の閉鎖を受けて1932年に長島愛生園に移りました。

明石海人
(現地の案内看板にある明石海人の写真)

 入所から暫くは精神的に不安定な時期が続きますが、回復後に和歌、エッセイ、小説などの文芸活動に着手しました。元より画家を志しており、芸術家肌の性質だったようです。

 愛生園で勤務していた医師で歌人としても知られる内田守人に学び、短歌で頭角を現します。
 その頃には失明、更に期間切開手術で声も失い、創作活動は指で書いた文字を代筆してもらう形で行われていました。

  1937年には改造社の新万葉集に11首もの作品が選ばれ、同社から「白描」という歌集を刊行。残念ながら同年に逝去しますが、死後に歌集は高い評価を受けます。
 正確な数字には議論があるものの、25万部を売り上げたとする説もある程です。




前へ │ トップページ │ 次へ
写真:目白寮跡
写真撮影:岡山の街角から


 -戻る-



ページトップに戻る