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岡山城天守閣

岡山城天守閣

詳細

国指定:重要文化財、史跡
別名:烏城(城が黒いため)
所在地:岡山市北区丸の内2-3-1
営業時間:9:00~17:00(通常時)
入館料:大人:300円(15歳以上)、小人:120円 (5歳~14歳)
関連リンク岡山城公式サイト
                岡山の地名の由来

築城までの経緯


 岡山城場所には、正平年間(1346年~1369年)には既に城があったそうです。
 これを現在ある岡山城の形に作り上げたのが宇喜多秀家です。

 宇喜多家は現在の岡山城のすぐ近くの石山(地名)に『石山城』を築いていましたが。
 しかし宇喜多直家が下克上を成し遂げ、秀家が跡を継ぐ頃には、宇喜多家は57万4,000石という非常に大きな石高を持つ大名になっていました。

 そこで大名としての格に見合う城を整備しようと建てられたのが岡山城です。
 8年間に及ぶ工事を経て、1957年に完成しました。

 尚、築城された場所が『岡山』と呼ばれる小さな丘だった事が城の名前となり、地名としての岡山の起源となっています。
 

岡山城と豊臣秀吉


岡山城と旭川 豊臣秀吉は岡山城築城に深く関わっています。
 当初は従来の拠点だった石山城を拡張していく計画だったのが、豊臣秀吉の判断で城の中心部自体を移転させる方向に変わりました

 宇喜多秀家は豊臣秀吉に寵愛されていました。
 彼の名前の『秀』は、『秀吉』から一字を頂いたもので、奥様も秀吉の娘(養女)の豪姫です。

 秀吉も可愛い娘夫婦のために気合を入れて指示をしたのでしょうか。

 しかしその為に岡山城は難工事を強いられるます。

 秀吉の案を採用すると城の左手側の防備が弱くなってしまうので、旭川の流れを変える事で、天然の巨大な堀とすることになりました。

 この工事は岡山城下で水害が多発する原因となり、水量を調整する為に百間川を整備されることになりました。

特徴


 岡山城の特徴として、まず目につくのが漆黒の外観です。

 この見た目から岡山城には別称として『烏城』(うじょう)の名前があります。
 隣の兵庫県にある姫路城の『白鷺城』の別名は、黒の烏城と対照的な白のお城という事で呼ばれるようになったという説もあります。

 そして天守台が不等辺五角形をしている事も大きな特徴です。
 この形は非常に珍しく、一説には織田信長の『安土城』を模倣しているとも伝えられています。

 安土城は信長の死後、程なくして焼失しました。
 その為に現在にその正確な形を伝える資料は乏しく、岡山城に安土城の面影を求めて訪れるファンの方もおられるそうです。

歴代城主


 初代城主である宇喜多家は関ヶ原の戦いへ敗退した西軍側で参戦しました。
 そして合戦後に八丈島へ流されてしまいます。

 岡山城には後釜として小早川秀秋が配置されます。
 小早川秀秋は関が原に西軍として参加するも、途中で東軍に寝返ります。
 この裏切り行為が関ヶ原の戦いを決したとも言われており、その戦功による加増・移封でした。

 しかし2年後に子がないまま早世し、江戸時代初の無嗣改易になりました。

 その後、池田家が岡山城の城主として明治時代まで続きます
 ただし池田忠継、その弟の忠雄と城主が続けて早世し、跡継ぎである忠雄の息子がまだ幼い事や、岡山藩が交通の要所であることから、忠雄の甥に当たり、鳥取藩の藩主を務めていた池田光政と入れ替えられています。

 この後は光政の血筋のまま、明治維新を迎えます。

 岡山城は池田忠雄の代でひと通りの完成を見たものとされています。
 藩としての方向性は池田光政の政治によって定められたと言われ、現在まで続く『教育県』としてのあり方にも強く影響していると言えるでしょう。

明治維新以降


焼失前の岡山城 明治維新の後に廃城令が出され、全国で多くの城が取り壊されました。
 岡山城は堀や幾つかの設備は撤去されたものの、天守・月見櫓・西之丸西手櫓・石山門等は残され、岡山市のシンボルとして親しまれていました。

 しかし岡山大空襲の際に天守閣、石山門が焼失しました。
(写真は焼失前の天守閣)

 現在の天守閣は1966年に再建されたもので、コンクリートで作られ、建物の外観を焼失前の建物に合わせたものです。
 内部は近代的な博物館になっており、岡山藩や岡山城の歴史を学ぶ事が出来ます。

 また、城内には『お城茶屋』という喫茶店まで用意されています。


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関連リンク


写真提供:岡山県

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