谷崎潤一郎・疎開の地
詳細
谷崎潤一郎(写真は疎開先の風景)
生没年:1886年~1965年
職業:作家
ゆかり:疎開の地
スポット:疎開先の住宅
谷崎潤一郎と岡山
作家として著名な谷崎潤一郎は、代表作の一つである『細雪』の一部を、岡山に住んでいた頃に執筆していました。
…といっても、それは決して楽しい転居ではなく、戦火が激しくなった来た為に、難を逃れての疎開という形での生活でした。
谷崎潤一郎は東京都出身ですが、関東大震災の後に関西に移住しており、戦火を逃れる為に、まず熱海へ避難しますが、ますます酷くなる戦況に危険を感じた為、後に岡山県へとさらに疎開してきました。
津山での生活
疎開の為に最初に訪れたのは、津山市です。
友人の岡 成志を頼って来たのと、奥様の妹の嫁ぎ先が、旧津山藩主の松平家の親族だった(渡辺 明)事が津山を選んだ理由だったそうです。
松平家とのツテがあった為か、とりあえず仮住まいとして選ばれたのは、かつて津山藩主が東照宮(地蔵院)を訪れる際に休憩する場所として築かれていた『宕々庵』という建物でした。
しかし岡 成志が結核で亡くなってしまい、またちょうど真庭市の勝山へちょうど良い住まいが見つかったこともあって、津山には短期間しかおられなかったそうです。
勝山での生活と永井荷風
勝山へ転居した谷崎潤一郎は檜舞台商店街にある建物に住みました。
この建物は現存しており、現在は旦酒店というお店になっています。
勝山の地でも執筆されていた『細雪』の登場人物にちなんだお酒なども販売しているそうです。
後に町役場の近くにあった旅館に移住して、そのまま終戦を迎えました。
その終戦の直前、谷崎潤一郎とある文豪が再会を果たしています。
それが永井荷風です。
東京空襲の後に岡山へ疎開してきていたのですが、不運にも岡山大空襲にも遭遇してしまったそうです。
谷崎潤一郎からは疎開してきた永井荷風に生活必需品などを贈っており、じかに会いに来られたのはそのお礼であったり、岡山市街地よりも平穏そうに思えた勝山への疎開先の変更などを思っての事だったようです。
赤岩旅館という宿へ泊まっていたそうですが、これがちょうど1945年8月15日の事で、長かった戦争は終わったのでした。
もし永井荷風が尋ねてくる時期がずれていたならば、日本を代表する文豪が勝山に揃って暮らす風景が見られたのかもしれません。
現在の風景
現在、谷崎潤一郎さんの疎開のゆかりの地として残されているのは、勝山に移り住んだ際に最初にいた場所である『旦酒店』さんのみで、津山の宕々庵や、勝山で二番目に移り住んだ旅館の建物は残されていません。
しかし勝山は古い町並みを現在までとどめていることで知られます。
歩いてみれば、谷崎潤一郎さんが細雪の展開について考えながら眺めたであろう風景を見る事が出来るかもしれません。
マップ
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関連リンク
写真:勝山の風景
写真提供:岡山県